「何の因果か知らねぇけども」というのは昔の時代劇によく出てきたセリフです。
思いもよらない展開となった時、あるいは知り合いとまさかの巡り合わせになった時などに出てきました。
この因果というのは「原因があって結果が現れる」という仏教用語で、善因善果、悪因悪果などと言われたりもします。
それをもって、何かの種(たね)があって芽が生える、蒔いた種は自分で刈らねばならぬといった教えにもなっています。
これは事実そのものなので、法則としてそれを知るのはとても大切なことだと言えます。
ですがそこで原因は自分にあるというのを真面目に考え過ぎたり、辛気くさく考えてしまうと、もうスタート時点でウゲッという気持ち(=種)が
心の中に生じることになってしまいます。
そうした種を放っておくと、それが蔓(つる)のように成長して自らを縛ることになっていきます。
因果応報のことを考えすぎて新たな因果を生むというのでは笑うに笑えません。
悪いのは自分だ、これから改めよう、という程度ならばいいのですが「常に正しくあらねばならない」となるとコレはもう自縛以外のなにものでも
ありません。
抑圧が加わると反発心が生じるのが自然の摂理です。
先ほどのウゲッがまさにそれです。
真面目に考えすぎたり、反省モードになりすぎるとそれが抑圧となって自縛に至るわけですから、それを解くためには誤った流れを断ち切る必要
があります。つまり、
「今が不幸 → 悪因悪果 → 悪い種を蒔いてしまった → 種を蒔いた自分がいけない → 後悔」
と、この最後の二つが余計なわけです。
しかもこのパターンにハマると、得てして青字の部分だけでグルグル回り続けてしまいがちです。
これが「反省」であればこの先へ生かすためのものなので後腐れなくスッキリさっぱりですが、「後悔」となる過去に囚われ、自身の思考に
囚われ、日を追うごとに後腐れが酷くなってしまいます。
実際のところは、自分で蒔いた種が芽生えた、というその事実を知るだけで十分だと言えます。
事実をただ受け入れる。
そこには良い悪いという価値判断は必要ないわけです。
「因果応報」という言葉にしても「応報」の部分が余計ということです。
そもそも種が芽生えたというのは画像の変化でしかありません。
因果というと大袈裟なものを考えてしまいますが、それはただ私たちのまわりの画像が変化したものに過ぎないということです。
言ってしまえば、この世は全て因果だということになります。
たとえば顔にあたる風の強さが少し違ったり、お風呂の温かさが少し違うのも因果であるわけです。
大きい小さいに関係なく、どれもこれも同じく因果なのです。
本当に大事なことは、善果を得ようと逆算して善因を仕込むことでもなければ、悪果に傷ついて悪因を悔やむことでもありません。
その仕組み、その事実を知ることが全てです。
そうすることによって目隠し状態のエンドレスループから抜け出すことが出来るようになります。
ここでの目隠し状態とは、自分の脳ミソの中から出られなくなって右往左往しているさまを指します。
するとフィルムの全景は目に入らなくなり、頭の中の苦しみに追い立てられて走り続けるようになります。
苦しみから逃れようとしてさらに苦しむ、その苦しみから逃れようとしてさらに苦しむ。
まさに回転ハシゴを走りつづけるネズミのように無自覚のまま条件反射的に走り続ける。
そしてそのままの勢いで盲目的に、次のフィルム、次のフィルムへと走り続ける。
今世の中だけにとどまらず、幾世も繰り返し続けてしまう輪廻の牢獄とはこのことです。
そもそも、こちら側にいる私たちは、映像を眺めて何かを「感じる」だけです。
何かを「考える」のは、あちら側で起きていることです。
しっかり感じるためには、映し出された事実をそのままに受け入れることが必要となります。
考え事をしながら食事をしていると料理の味わいがボヤけてしまうのと全く同じです。
ですが、私たちは事実(映像)から派生した考えの方に心を奪われてしまっています。
自分たちの考えのほうを眺めても、感じるものなどありません。
映画で言えば、ストーリーや画像とは関係なしに、主人公がブツブツ独り言を呟き続けるようなものです。
いつもいつもそんなものばかり観せられていたら「あぁコイツまた始まったよ」と思うだけでしょう。
こちら側の私たちにとって本当に観たいのは、自分で蒔いた種が芽生えたという、その事実、そのストーリーです。
それをボヤかしてしまうような余計な付け足し(独り言、思考の暴走)なんてのは邪魔以外のなにものでもないのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/01/3cb6c2050157d7ee226f633fce4f58fc.jpg)
私たちは、ケンケンパをする子供のようなものです。
次はどの石に飛ぼうかなと楽しんでいるだけで、石自体には何の意味もありません。
まして、それによって私たち自身が変質するというようなことはないわけです。
石とはフィルムの一コマのことであり、まわりを囲む景色や現実のことです。
「一歩」というその実際のアクション、実際の行動によって、波紋のようにこちら側に刺激が伝わってくる、そして私たちの魂が色々なことを感じる。
その瞬間に「意味」が発生するのであって、一歩先の踏み石そのものに意味があるわけではありません。
私たち自身は何一つ変わっていません。
私たちは変わらずに、外の景色だけが変わります。
外の景色が理想的なものになれば幸せを感じられるというのは、単に私たちがそう信じているだけのものです。
脳で幸せと考えたものと、心や魂とは別の状態にあります。
だから、ややこしい。
脳で考えたものは、どこまで行っても満たされることはなく、むしろ苦しみが増していく。
何千年も私たちはこのループにはまってしまっています。
どうなれば幸せになれるかというのは、頭だけで判断できるものではありません。
頭で考えた理想というのは「欲望」「一般論」「価値観」に支配されがちです。
何故なら、考えというのは何もないところから捻り出されるものではなく必ず何かを起点としなければ作り出せないからです。
ですから、こちら側の私たちが感じていること、それを起点にしていればそれは純粋なものとなっていきますが、大抵はあちら側のフィルムの
中にあるものを起点としてしまいます。
自分のことばかり考えていればいるほど、そうなります。
つまり、フィルムの中に埋没していればいるほど、そうなるということです。
食欲や物欲、名誉欲、承認欲、自己満足。
こうしたものは一見バラバラですが、実は安心したいという点で共通しています。
安心したいということは、その前提として不安に感じる状態があるということです。
もとの状態を受け入れられていないのですから、そこに戻るたびに不安になります。
結果、与えられれば安心するものの、長続きしないということになります。
安心を維持するためには新たなものを与え続ける必要が出てくるわけです。
たとえば事業が大成功したら満たされるかというと、今度は綺麗な人と付き合いたいとか、野球チームを持ちたいとか、宇宙に行きたいとか、
どこまで行ってもキリがありません。
そもそも、新たな刺激を求め続けるのは私たちの本能です。
それは、こちら側の私たち、今ココの私たちが求めているものです。
それが「生きる」ということの根幹にあります。
ただ、もっともっと上のものを、と欲しがっても物質世界であるかぎり無限にレパートリーが存在するわけではありません。
また誰もがそうしたものを叶え続けられるわけでもありません。
同じ景色でも満足を感じるためには、途中に不足の状態を挟むしかなくなります。
あれ?と思うかもしれません。
私たちの人生で、苦労や不足感が絶えずやってくるのは、まさしく満足を得るための自作自演だったということになります。
ですから、とどまることのないループから抜け出したい、あるいは苦労や不足感を断ち切りたいのならば、まずは「頭で考えた幸せを追うことを
やめる」のが第一になるわけです。
下手な考え休むに似たり。
考えた幸せというのは、無限ループの迷宮路に一直線です。
何度も生まれ直す輪廻の牢獄もまた、これと同じ理屈にあります。
これは輪廻そのものが良くないと言っているのではありません。
仏教が否定的に扱う輪廻の牢獄というのは、眠り続けたままでの暴走トラック状態のことを指しています。
もとより、こちら側の私たちが刺激を得るためには輪廻こそが最良と言えます。
ただ、新しいアトラクションを嬉々として乗り替えていくのと、目隠ししたまま何が何だか分からずに同じジェットコースターに乗り続けている
のとでは全くの別物であるわけです。
自ら目隠しをして条件反射的な無限ループから抜け出せなくなる、仏教が説いているのはそのパターンです。
輪廻というものは不幸で、輪廻から解放されるのが幸福だなんて誰も言ってません。
解脱することが魂として進んでるなんていうのは幼稚な発想でしかありません。
同様に、善因善果や悪因悪果も、単に仕組みを説明するものでしかなく、悪因悪果がいけないなどとは一言も言ってないわけです。
それは、目隠しをしたまま「不条理だ」と嘆き悲しむ子供たちを見て、目を開けてみなさいと優しく教えているに過ぎないのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/92/7ea4a149582ce83ad012ae312369da86.jpg)
マウスの実験でこういうものがあります。
ニコチン入りの水の入った容器があってスイッチを押せば数滴ずつ出てくる仕掛けです。
依存症のマウスは一度学習すると何度でもそのスイッチを押し続けるようになると言います。
不安と苛立ちを自ら作り出し、そこから逃れるためにカゴの中をウロウロし、ニコチン水のスイッチを押す。
飼い慣らされた家畜。まだ目覚めていない人類。
グフジェフが言っているのはそういう意味でした。
豪邸を夢見てついに手に入れた、あるいは事業に成功した、そうしたものは素晴らしいことです。
ただ、その喜びというのはそうした景色そのものにあるのではなく実現の過程にあるものです。
そこを勘違いして景色そのものを喜びと思ってしまうと、ニコチンを追うマウスと同じになってしまいます。
夢を描いて泥や汗にまみれるのは尊いものです。
ただその尊さは泥や汗にあって、夢そのものにあるのではありません。
夢は方便でしかないわけです。
そこを履き違えると欲望ループに身を委ねることになってしまいます。
ですから「夢見た景色を簡単に手に入れる方法」なんていうのは本末転倒の極みでしかありません。
そこに至る過程、経験、つまりその刺激こそが真の目的だというのに、そこをすっ飛ばして結果だけ得ようとは、いったい何のために生まれて
来たのかという話です。
引き寄せの法則というのは、思い込みを捨てるための方便としては有効ですが、私たち自身をさらに深い眠りにつかせて家畜化させる危険のほうが
遥かに大きいと言わざるを得ません。
私たちの頭が夢見る「成功続き」「幸せ続き」というのはまさに無限ループそのものです。
新たな刺激を得れば得るほど依存度というものは高まっていきます。
クスリならばその先にあるのは廃人です。
アメリカの億万長者がボロボロになっていく姿をこれまで山ほど見てきているはずです。
そうした無限の欲望ループを絶つため、言いかえれば私たちを依存症にさせないために、早め早めの失敗や不幸が起きていると言うことだって
できるわけです。
「結果ではなく過程こそが目的そのもの」
その理由は、まさしく私たちが今ココから動けないことに尽きます。
今ココから一ミリも動けない私たちというのは、まわりが変化することでしか何かを感じること
ができません。
こちら側は変わらない。ならば向こう側の変化から刺激を受けるしかないということです。
何故そんな面倒くさい仕掛けになっているかは既に説明したとおりです。
もともと、こちら側しか存在していない。
もともと、今ココの私たちしか存在していない。
ただ、こちら側だけでは何も起きない。
なぜならばそれは一つの同じものであるから。
だから大いなる一つ(=私たち)は「自分以外」という概念(向こう側)を作り出したのでした。
こうすることで、外からの刺激によって内から生じるものが出来ました。
そのために私たちはこの世を生きているのでした。
結果だけにしか目を向けないというのは、わけもなくオモチャを欲しがる子供にそのままアホみたいにジャンジャン与えるのと同じです。
景色を比較すること自体が無意味なことだと分かれば、過去に戻りたいとか、あの時ああすれば良かったなどというのが単なるおママゴトでしか
ないと知るでしょう。
すべてコレでいいのです。
選択肢は無数にあります。
ただ、選択は一つです。
今ココにおいては、あれ以外の選択など無かったのです。
今ココの選択というのは常に一つしかありません。
どれが正しいなんていう概念はそもそも存在しません。
選択したもの、それが唯一絶対です。
どれが成功でどれが失敗なんてものはない。
それは単なる幻想です。
ですから将来を心配する必要も無いわけです。
「そうは言っても割り切れない」「あの時ああすれば良かった」「もっと他の選択があった」と悶々を消すことができないならば、今ココで
それをやり直せばいい。
空想のおママゴトより遥かに現実的な話です。
今ココで選択できるのは一つですが、選択肢そのものは無限にあります。
先ほどまで選び続けてきた選択を、今この瞬間に変えることもできます。
過去の選択に不満を覚えるならば、あれこれ理由をつけて続けたりせず、今ここで少しでも違った選択をしてみればいい。
大きく違うのが怖ければ、ほとんど違いが分からないくらいの選択をすればいい。
見た目が変わらなくとも、心が違えば、それは違う選択となります。
不安などというのは自作自演の幻想でしかありません。
ガチャッと行き先を変えたらそのレールの先は谷底に真っ逆さまかもしれない、なんていう不安こそが幻想そのものです。
私たちは今ココにしか存在できません。
あちら側には存在できません。
フィルムのコマの中に入り込むことはできないのです。
まわりの景色がどうなろうと、私たちは今ココから一歩も動きません。
だからどんな選択をしても絶対に大丈夫なのです。
どんな選択をしても非難する存在もいません。
こちら側はそもそも私たちしかいないからです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/e2/51b19e7642edf076063ed3a982ad2390.jpg)
これまで出来なかった選択。
それこそが、未来の私たちからすれば「やり直し」と同じ意味になります。
同時にそれは、今から見た過去においての、やることのできなかった悔やみを晴らす選択にもなります。
「過去あの時の自分が謝れなかった、けれども今この自分は謝れた」
不思議なことにそれによってあの時の悔やみは半減します。そしてそれを繰り返すにつれて、あの時の悔やみは綺麗さっぱり無くなります。
「過去あの時に怖じ気づいて選択できなかった、けれども今この自分は思い切って選択できた」
それによってあの時の自分への非難や反省は半減します。そしてそれを繰り返すうちに、あの時の傷も無くなっていきます。
何故ならば、傷ついているのはあの時の自分ではなく、今ココの自分だからです。
謝る相手や選択する内容が、今と昔で違うものだったとしても、私たちは変わらず今ココにあればこそ、その原理は発動します。
それは向こう側ではなく、こちら側に刺さったトゲです。
悔やんでいることがあるならば、それを今ココで正せば、時空に関係なく過去も癒されます。
私たちは一ミリも動かず変わらず、今ココに在り続けているのですから。
時空(時間・空間)なんていうものは所詮あちら側のものでしかありません。
単なる景色であり、その羅列でしかないわけです。
私たちが過去を悔やんでいるという時、それはその当時のまわりの景色に対してではなく、自分自身に対して向けられています。
ですから今のまわりの景色が当時と違うものだったとしても、今この自分に上書きされた最新の言動こそが時間を超えて全てを凌駕するものと
なります。
過去の自分を書き換えるには、当時に戻らなくても、今ココの自分を上書きすればいいということです。
過去に冷たい態度を取ってしまったりヒドいことを言ってしまったとしても、今ココで心から謝り新たな気持ちで接すれば、過去のモヤモヤは
すぐに消えます。
子供たちが仲直りの達人であるのは、まさにこの一点に尽きます。
そして、そうであればこそ子供たちは後悔などとも無縁なのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/cb/10f80fffcf61ef3782e147cf087081e9.jpg)
(つづく)
思いもよらない展開となった時、あるいは知り合いとまさかの巡り合わせになった時などに出てきました。
この因果というのは「原因があって結果が現れる」という仏教用語で、善因善果、悪因悪果などと言われたりもします。
それをもって、何かの種(たね)があって芽が生える、蒔いた種は自分で刈らねばならぬといった教えにもなっています。
これは事実そのものなので、法則としてそれを知るのはとても大切なことだと言えます。
ですがそこで原因は自分にあるというのを真面目に考え過ぎたり、辛気くさく考えてしまうと、もうスタート時点でウゲッという気持ち(=種)が
心の中に生じることになってしまいます。
そうした種を放っておくと、それが蔓(つる)のように成長して自らを縛ることになっていきます。
因果応報のことを考えすぎて新たな因果を生むというのでは笑うに笑えません。
悪いのは自分だ、これから改めよう、という程度ならばいいのですが「常に正しくあらねばならない」となるとコレはもう自縛以外のなにものでも
ありません。
抑圧が加わると反発心が生じるのが自然の摂理です。
先ほどのウゲッがまさにそれです。
真面目に考えすぎたり、反省モードになりすぎるとそれが抑圧となって自縛に至るわけですから、それを解くためには誤った流れを断ち切る必要
があります。つまり、
「今が不幸 → 悪因悪果 → 悪い種を蒔いてしまった → 種を蒔いた自分がいけない → 後悔」
と、この最後の二つが余計なわけです。
しかもこのパターンにハマると、得てして青字の部分だけでグルグル回り続けてしまいがちです。
これが「反省」であればこの先へ生かすためのものなので後腐れなくスッキリさっぱりですが、「後悔」となる過去に囚われ、自身の思考に
囚われ、日を追うごとに後腐れが酷くなってしまいます。
実際のところは、自分で蒔いた種が芽生えた、というその事実を知るだけで十分だと言えます。
事実をただ受け入れる。
そこには良い悪いという価値判断は必要ないわけです。
「因果応報」という言葉にしても「応報」の部分が余計ということです。
そもそも種が芽生えたというのは画像の変化でしかありません。
因果というと大袈裟なものを考えてしまいますが、それはただ私たちのまわりの画像が変化したものに過ぎないということです。
言ってしまえば、この世は全て因果だということになります。
たとえば顔にあたる風の強さが少し違ったり、お風呂の温かさが少し違うのも因果であるわけです。
大きい小さいに関係なく、どれもこれも同じく因果なのです。
本当に大事なことは、善果を得ようと逆算して善因を仕込むことでもなければ、悪果に傷ついて悪因を悔やむことでもありません。
その仕組み、その事実を知ることが全てです。
そうすることによって目隠し状態のエンドレスループから抜け出すことが出来るようになります。
ここでの目隠し状態とは、自分の脳ミソの中から出られなくなって右往左往しているさまを指します。
するとフィルムの全景は目に入らなくなり、頭の中の苦しみに追い立てられて走り続けるようになります。
苦しみから逃れようとしてさらに苦しむ、その苦しみから逃れようとしてさらに苦しむ。
まさに回転ハシゴを走りつづけるネズミのように無自覚のまま条件反射的に走り続ける。
そしてそのままの勢いで盲目的に、次のフィルム、次のフィルムへと走り続ける。
今世の中だけにとどまらず、幾世も繰り返し続けてしまう輪廻の牢獄とはこのことです。
そもそも、こちら側にいる私たちは、映像を眺めて何かを「感じる」だけです。
何かを「考える」のは、あちら側で起きていることです。
しっかり感じるためには、映し出された事実をそのままに受け入れることが必要となります。
考え事をしながら食事をしていると料理の味わいがボヤけてしまうのと全く同じです。
ですが、私たちは事実(映像)から派生した考えの方に心を奪われてしまっています。
自分たちの考えのほうを眺めても、感じるものなどありません。
映画で言えば、ストーリーや画像とは関係なしに、主人公がブツブツ独り言を呟き続けるようなものです。
いつもいつもそんなものばかり観せられていたら「あぁコイツまた始まったよ」と思うだけでしょう。
こちら側の私たちにとって本当に観たいのは、自分で蒔いた種が芽生えたという、その事実、そのストーリーです。
それをボヤかしてしまうような余計な付け足し(独り言、思考の暴走)なんてのは邪魔以外のなにものでもないのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/01/3cb6c2050157d7ee226f633fce4f58fc.jpg)
私たちは、ケンケンパをする子供のようなものです。
次はどの石に飛ぼうかなと楽しんでいるだけで、石自体には何の意味もありません。
まして、それによって私たち自身が変質するというようなことはないわけです。
石とはフィルムの一コマのことであり、まわりを囲む景色や現実のことです。
「一歩」というその実際のアクション、実際の行動によって、波紋のようにこちら側に刺激が伝わってくる、そして私たちの魂が色々なことを感じる。
その瞬間に「意味」が発生するのであって、一歩先の踏み石そのものに意味があるわけではありません。
私たち自身は何一つ変わっていません。
私たちは変わらずに、外の景色だけが変わります。
外の景色が理想的なものになれば幸せを感じられるというのは、単に私たちがそう信じているだけのものです。
脳で幸せと考えたものと、心や魂とは別の状態にあります。
だから、ややこしい。
脳で考えたものは、どこまで行っても満たされることはなく、むしろ苦しみが増していく。
何千年も私たちはこのループにはまってしまっています。
どうなれば幸せになれるかというのは、頭だけで判断できるものではありません。
頭で考えた理想というのは「欲望」「一般論」「価値観」に支配されがちです。
何故なら、考えというのは何もないところから捻り出されるものではなく必ず何かを起点としなければ作り出せないからです。
ですから、こちら側の私たちが感じていること、それを起点にしていればそれは純粋なものとなっていきますが、大抵はあちら側のフィルムの
中にあるものを起点としてしまいます。
自分のことばかり考えていればいるほど、そうなります。
つまり、フィルムの中に埋没していればいるほど、そうなるということです。
食欲や物欲、名誉欲、承認欲、自己満足。
こうしたものは一見バラバラですが、実は安心したいという点で共通しています。
安心したいということは、その前提として不安に感じる状態があるということです。
もとの状態を受け入れられていないのですから、そこに戻るたびに不安になります。
結果、与えられれば安心するものの、長続きしないということになります。
安心を維持するためには新たなものを与え続ける必要が出てくるわけです。
たとえば事業が大成功したら満たされるかというと、今度は綺麗な人と付き合いたいとか、野球チームを持ちたいとか、宇宙に行きたいとか、
どこまで行ってもキリがありません。
そもそも、新たな刺激を求め続けるのは私たちの本能です。
それは、こちら側の私たち、今ココの私たちが求めているものです。
それが「生きる」ということの根幹にあります。
ただ、もっともっと上のものを、と欲しがっても物質世界であるかぎり無限にレパートリーが存在するわけではありません。
また誰もがそうしたものを叶え続けられるわけでもありません。
同じ景色でも満足を感じるためには、途中に不足の状態を挟むしかなくなります。
あれ?と思うかもしれません。
私たちの人生で、苦労や不足感が絶えずやってくるのは、まさしく満足を得るための自作自演だったということになります。
ですから、とどまることのないループから抜け出したい、あるいは苦労や不足感を断ち切りたいのならば、まずは「頭で考えた幸せを追うことを
やめる」のが第一になるわけです。
下手な考え休むに似たり。
考えた幸せというのは、無限ループの迷宮路に一直線です。
何度も生まれ直す輪廻の牢獄もまた、これと同じ理屈にあります。
これは輪廻そのものが良くないと言っているのではありません。
仏教が否定的に扱う輪廻の牢獄というのは、眠り続けたままでの暴走トラック状態のことを指しています。
もとより、こちら側の私たちが刺激を得るためには輪廻こそが最良と言えます。
ただ、新しいアトラクションを嬉々として乗り替えていくのと、目隠ししたまま何が何だか分からずに同じジェットコースターに乗り続けている
のとでは全くの別物であるわけです。
自ら目隠しをして条件反射的な無限ループから抜け出せなくなる、仏教が説いているのはそのパターンです。
輪廻というものは不幸で、輪廻から解放されるのが幸福だなんて誰も言ってません。
解脱することが魂として進んでるなんていうのは幼稚な発想でしかありません。
同様に、善因善果や悪因悪果も、単に仕組みを説明するものでしかなく、悪因悪果がいけないなどとは一言も言ってないわけです。
それは、目隠しをしたまま「不条理だ」と嘆き悲しむ子供たちを見て、目を開けてみなさいと優しく教えているに過ぎないのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/92/7ea4a149582ce83ad012ae312369da86.jpg)
マウスの実験でこういうものがあります。
ニコチン入りの水の入った容器があってスイッチを押せば数滴ずつ出てくる仕掛けです。
依存症のマウスは一度学習すると何度でもそのスイッチを押し続けるようになると言います。
不安と苛立ちを自ら作り出し、そこから逃れるためにカゴの中をウロウロし、ニコチン水のスイッチを押す。
飼い慣らされた家畜。まだ目覚めていない人類。
グフジェフが言っているのはそういう意味でした。
豪邸を夢見てついに手に入れた、あるいは事業に成功した、そうしたものは素晴らしいことです。
ただ、その喜びというのはそうした景色そのものにあるのではなく実現の過程にあるものです。
そこを勘違いして景色そのものを喜びと思ってしまうと、ニコチンを追うマウスと同じになってしまいます。
夢を描いて泥や汗にまみれるのは尊いものです。
ただその尊さは泥や汗にあって、夢そのものにあるのではありません。
夢は方便でしかないわけです。
そこを履き違えると欲望ループに身を委ねることになってしまいます。
ですから「夢見た景色を簡単に手に入れる方法」なんていうのは本末転倒の極みでしかありません。
そこに至る過程、経験、つまりその刺激こそが真の目的だというのに、そこをすっ飛ばして結果だけ得ようとは、いったい何のために生まれて
来たのかという話です。
引き寄せの法則というのは、思い込みを捨てるための方便としては有効ですが、私たち自身をさらに深い眠りにつかせて家畜化させる危険のほうが
遥かに大きいと言わざるを得ません。
私たちの頭が夢見る「成功続き」「幸せ続き」というのはまさに無限ループそのものです。
新たな刺激を得れば得るほど依存度というものは高まっていきます。
クスリならばその先にあるのは廃人です。
アメリカの億万長者がボロボロになっていく姿をこれまで山ほど見てきているはずです。
そうした無限の欲望ループを絶つため、言いかえれば私たちを依存症にさせないために、早め早めの失敗や不幸が起きていると言うことだって
できるわけです。
「結果ではなく過程こそが目的そのもの」
その理由は、まさしく私たちが今ココから動けないことに尽きます。
今ココから一ミリも動けない私たちというのは、まわりが変化することでしか何かを感じること
ができません。
こちら側は変わらない。ならば向こう側の変化から刺激を受けるしかないということです。
何故そんな面倒くさい仕掛けになっているかは既に説明したとおりです。
もともと、こちら側しか存在していない。
もともと、今ココの私たちしか存在していない。
ただ、こちら側だけでは何も起きない。
なぜならばそれは一つの同じものであるから。
だから大いなる一つ(=私たち)は「自分以外」という概念(向こう側)を作り出したのでした。
こうすることで、外からの刺激によって内から生じるものが出来ました。
そのために私たちはこの世を生きているのでした。
結果だけにしか目を向けないというのは、わけもなくオモチャを欲しがる子供にそのままアホみたいにジャンジャン与えるのと同じです。
景色を比較すること自体が無意味なことだと分かれば、過去に戻りたいとか、あの時ああすれば良かったなどというのが単なるおママゴトでしか
ないと知るでしょう。
すべてコレでいいのです。
選択肢は無数にあります。
ただ、選択は一つです。
今ココにおいては、あれ以外の選択など無かったのです。
今ココの選択というのは常に一つしかありません。
どれが正しいなんていう概念はそもそも存在しません。
選択したもの、それが唯一絶対です。
どれが成功でどれが失敗なんてものはない。
それは単なる幻想です。
ですから将来を心配する必要も無いわけです。
「そうは言っても割り切れない」「あの時ああすれば良かった」「もっと他の選択があった」と悶々を消すことができないならば、今ココで
それをやり直せばいい。
空想のおママゴトより遥かに現実的な話です。
今ココで選択できるのは一つですが、選択肢そのものは無限にあります。
先ほどまで選び続けてきた選択を、今この瞬間に変えることもできます。
過去の選択に不満を覚えるならば、あれこれ理由をつけて続けたりせず、今ここで少しでも違った選択をしてみればいい。
大きく違うのが怖ければ、ほとんど違いが分からないくらいの選択をすればいい。
見た目が変わらなくとも、心が違えば、それは違う選択となります。
不安などというのは自作自演の幻想でしかありません。
ガチャッと行き先を変えたらそのレールの先は谷底に真っ逆さまかもしれない、なんていう不安こそが幻想そのものです。
私たちは今ココにしか存在できません。
あちら側には存在できません。
フィルムのコマの中に入り込むことはできないのです。
まわりの景色がどうなろうと、私たちは今ココから一歩も動きません。
だからどんな選択をしても絶対に大丈夫なのです。
どんな選択をしても非難する存在もいません。
こちら側はそもそも私たちしかいないからです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/e2/51b19e7642edf076063ed3a982ad2390.jpg)
これまで出来なかった選択。
それこそが、未来の私たちからすれば「やり直し」と同じ意味になります。
同時にそれは、今から見た過去においての、やることのできなかった悔やみを晴らす選択にもなります。
「過去あの時の自分が謝れなかった、けれども今この自分は謝れた」
不思議なことにそれによってあの時の悔やみは半減します。そしてそれを繰り返すにつれて、あの時の悔やみは綺麗さっぱり無くなります。
「過去あの時に怖じ気づいて選択できなかった、けれども今この自分は思い切って選択できた」
それによってあの時の自分への非難や反省は半減します。そしてそれを繰り返すうちに、あの時の傷も無くなっていきます。
何故ならば、傷ついているのはあの時の自分ではなく、今ココの自分だからです。
謝る相手や選択する内容が、今と昔で違うものだったとしても、私たちは変わらず今ココにあればこそ、その原理は発動します。
それは向こう側ではなく、こちら側に刺さったトゲです。
悔やんでいることがあるならば、それを今ココで正せば、時空に関係なく過去も癒されます。
私たちは一ミリも動かず変わらず、今ココに在り続けているのですから。
時空(時間・空間)なんていうものは所詮あちら側のものでしかありません。
単なる景色であり、その羅列でしかないわけです。
私たちが過去を悔やんでいるという時、それはその当時のまわりの景色に対してではなく、自分自身に対して向けられています。
ですから今のまわりの景色が当時と違うものだったとしても、今この自分に上書きされた最新の言動こそが時間を超えて全てを凌駕するものと
なります。
過去の自分を書き換えるには、当時に戻らなくても、今ココの自分を上書きすればいいということです。
過去に冷たい態度を取ってしまったりヒドいことを言ってしまったとしても、今ココで心から謝り新たな気持ちで接すれば、過去のモヤモヤは
すぐに消えます。
子供たちが仲直りの達人であるのは、まさにこの一点に尽きます。
そして、そうであればこそ子供たちは後悔などとも無縁なのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/cb/10f80fffcf61ef3782e147cf087081e9.jpg)
(つづく)