これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

生まれ直しのススメ(実践編・後編)

2018-12-12 21:25:40 | 天地の仕組み (Basharサポート)
前編では過去へ意識を向けて、自動運転がガチガチに固まる前の感覚にシンクロしました。

そこで私たちが何をやりたかったのか、どんな心地だったのかを感じ、今現在の自動運転との違い(感覚の違い)を味わいました。

あの時と今とは明らかに感覚が違っていました。

「あの時はあの時、今は今だ」などと即断してしまうと思考はストップし、この試みは無意味に終わってしまいます。

新たな観念、信念、日々のルーティン、諦め、さらには思考停止、そうしたものが積み重ねられた結果、あの時と今とは感覚も心地も変わっている。
まずはそれを感じることが初めの一歩となります。

まだ自動運転が薄い頃と比べることで、今の私たちというのがクッキリと浮かび上がってきます。

とはいえ、その違いを悲しんだり悪く捉えるのがここでの目的ではありません。
そちらに逃げてしまっては、また本質から逸らされてしまうだけです。

私たちがどんな観念、どんな信念、どんな諦めを持って、今現在の自動運転、今現在の感覚になってしまったのか、それを考えることが次の一歩
となります。

そしてこうした説明を他人から聞かされたところで、所詮、表層的なものにしかなりません。
与えられた答えを理解したとしても、それは「頭の中だけ」で終わってしまうからです。

肌で感じ取り、身をもってその違いを実感し、自分の中から答えを導き出すことで、心の底から、深層の部分から理解することになります。

そこまでして初めて、自動運転の安全抑制装置が解除されるわけです。

前回に続いて今回の内容も、なかなか先へ進まず回りくどいかもしれませんが、そのための実践編ということになります。



それでは理屈は一旦リセットしまして、また肌感覚の旅に出てみたいと思います。

今度はだいぶ先、未来の景色です。





そこは真っ白な布団の中です。
私たちは長いこと横になっていて、手や足は痩せ細っています。

重い身体は自分のものではないようです。
頭もボンヤリしてフワーッとしています。
何もかもゆっくりと流れています。

もうあと何日かの命と、それが何となく自分でも分かっています。

そんな中、ふと口をついて言葉が出てきました。
決して深い思いを馳せて出てきたものではなく、本当にサラリと出た言葉でした。

「もっと思い切って、好きにやっても良かったなぁ…」

それは過去の失敗を悔やむものではなく、ただ、今となっては心配なんかしないでエイヤーとやってしまえばもっと楽しかったろうなぁという
純粋な思いなのでした。

そうしていくつかの景色が頭に浮かんできました。

これまで気づきもしなかったことが浮かんだのなら諦めもつきますが、実際はそうではありませんでした。
それらは薄っすらと頭にあったけどもやらなかったこと、立ち止まろうとしなかったことでした。

当時思いつかなかったことならば、綺麗サッパリ、未練など残るはずもありません。

死の床で思う「あの時こうしておけばよかった」「もう一度あの時を味わいたい」は、どれもあの時わかっていたことばかりだったわけです。

ただ、今はもう、そんなことは叶うべくもない夢物語。。。

今にして思えば子供の頃や学生の頃というのは、見えている世界が限られていました。
ちょっとしたことを心配してその一歩を踏み出せず、自分が見えている世界の外なんていうものは想像もしませんでした。

そうして目の前の世界を壊さないように気をつかい、気になったことにもフタをして、そのことは考えないようにゴマかして過ごしていた…

しかし、今の景色には映らない、外の世界というものは誰にでもあります。
この世のどんな存在であっても必ずそれはあります。

何故ならば私たちはみんな、誰もが意識を持った存在だからです。

意識が無いとそもそも自覚をすることも出来ません。
ですから、私たちは誰もが意識を持っています。
そして意識を持った瞬間、それは自分の意識の中に存在することになります。
つまり囲まれた景色の中に住むことになるわけです。

ですから、我思う存在はすべて、自分の意識の外のものは見えないということになります。

誰にでも自分には見えていない世界が必ずある。
それこそが全ての存在が未知を求めようとする源泉になっています。

でもその見えていない世界というのは、ほんのわずか一歩のところにあるのでした。
それを無理だと思った瞬間、遥か何千里もの彼方へと消え去っていくことになります。

今となってはそれがよく分かります。
だから私たちは「生まれ直し」「生き直し」のストーリーに心惹かれるのです。

そして死の床に伏す今もまた、あの時やこの時のことがスーッと脳裏に浮かんでくるのでした。



人の目、会社の目、知人の目、親の目、家族の目、そんな小っさいことなんて気にせず、あの時にもっと自分の気持ちに素直になれば良かった

自分の意地、信条、生き方なんてカッコつけず、あの時やりたいようにやっとけば良かった

お金の心配、生活の心配、家族の心配、10年後20年後の心配、、、そんなことで今を縛らず、本当にやりたいことをやっとけば良かった

なぜならば、本当に自分がやりたかったことは、そうした心配の先に存在したのだから
私たちの意識の外にあったのだから
自らの縛りを解かねば見えない世界だったのだから

それは誰かに分かってもらおうなんていうものではなかった
湧き上がる衝動に理屈なんてものはない
一歩先に何があるかなんて自分でも分からない
ただこの衝動は自分にとっての真実
それは自分だけに分かるもの

それを知りながら何をウジウジすることがあったのか




当時はそのハードルがとても高く思え、結局、足を踏み出せずに過ごしてしまいました。
自分の世界は目の前に見えるものがすべて。
これを壊してはいけない、と。

中高生の頃からずっとそうであり続け、延々とそれを真面目に続けていたのでした。

それが一人相撲でしかなかったことを、死の間ぎわの私たちは知りました。
そしてボーッとする意識の中で「生まれ直し」「やり直し」の夢を描いた。。。





はい!

その結果として、奇蹟が起こり、今この瞬間に戻って来たのだとしたらどうでしょうか?



もう一度あの頃に戻りたい。
バリバリと体を動かせたあの頃に。

いや、そんな若造ではなくもっと落ち着いたあの頃のほうがいい。
金銭的にも余裕のできたあの頃が。

いやいや、会社勤めを終えてやりたいことをやれた自由なあの頃だな。
戻れるのなら、時間に縛られず何でもできたあの頃だ。

いやそれよりも、老いては居たがそのぶん仲間や孫たちに囲まれ、心から満ち足りていたあの頃。もう一度だけ味わえるならあの頃に。。。




そうした思いが叶って今ココに戻ってきたとしたら。

あの時ああしとけば良かった、そのあの時が今ココだった。
あの時こう言えば良かった、そのあの時が今ココだった。

夢にまで描いた、その時です。

「もっと思い切って好きなようにやっておけばよかった」
「意固地にならず素直に一言『ありがとう』『ごめんなさい』を言っておけば良かった」

その思いが今なら叶うわけです。

それでもなお自分の中の「頑固な自分」は邪魔をすることでしょう。
いやいや、そんなの空想の話じゃないかと。
それよりもやっぱり安全が一番、安心が一番だと。

その言葉を耳にすると、たちまちウットリと心を奪われ、そのまま流されてしまいたい欲求に駆られます。

余計なことはよそう、これまでの流れにそのまま乗っかっていよう、、、

そうした誘惑というのは実に強烈なものがあります。

でもそれこそが、暴走トラックそのものだと気づく必要があります。
ニコチン水のネズミと同じ、回転ハシゴを走るネズミと同じ、クスリに惹かれる中毒患者と同じ状態になっていると気がつく瞬間です。

なぜ今までと同じ流れに身をまかすことに、これほど強烈な誘惑があるのか、自分を突き放して今一度、冷静に見てみて下さい。

「ラクだから」というには、あまりにも異常な強さではないでしょうか。


その異常さこそが、それが普通ではないことを証明しています。

尋常ではない何かが、確実に私たちの中に存在していることを自覚する必要があります。

それは別にまがまがしい存在とかそういうものではありません。
それこそがまさしく自縄自縛の本体です。

考えなしにありとあらゆるものを自動運転へ任せきった結果の産物であり、私たちが無意識のうちに作り上げたものであるわけです。

そのまま流されてしまいたいという抗しがたい衝動。
それこそが普段は隠れてて目に見えない自縛の正体です。

ちょっとおかしいな?という疑いが、まさに今うまれました。
でも面倒がってそれを捨ててしまうと、その瞬間、私たちは再び「未だ目覚めぬ家畜」に戻ってしまいます。

当たり前の話ですが「眠っている状態」というのは目を開けて起きないかぎりは客観的に理解することはできません。
そして「起きている状態」というのは寝ている状態の外側にありますので、内側に居る人がいくら頭で想像しても理解できるものではありません。

私たちは眠った状態にあることを自覚せぬまま、目覚めた状態を知ろうとして悶々としています。

ここが一番安全だとしがみついて立ち止まったまま外の世界を見ようとしてもそれが見えるはずはありません。
それなのに私たちは、見えない分からないというのを理由に、寝ている状態と起きている状態の間には天地ほどの隔たりがあるのだと思い込んで
しまっています。

しかし実際のそれはケンケンパの次の一歩に過ぎないのです。

寝ている状態とは今のサークル(輪っか)の中の世界であり、起きている状態とは次のサークルの世界です。

いつまでも寝続けようと思わなければ私たちは必ず目がさめるのです。

一歩を踏み出すには大変な努力が必要だと思うのは大いなる誤解です。
この世界というのは、ほっておけば勝手に一歩進むように出来ています。
それなのに頑張って進まないように努力をしているというのが真実です。

怠惰に溺れて布団から起きたくないと言って、昼を過ぎてもダラダラと出てこない。それが今の私たちの姿なのです。





先ほど、死の間際に心を向けた時に、目覚めの明かりが灯もりました。
今ここに、わずかなともしびが灯ったわけです。

あれをやってみたい。
これをやってみたい。

それはフッと吹けば消えてしまうような弱々しい灯りです。

でもそのわずかな一歩にフタをしてしまったら、それは二度と届くことのない暗闇の彼方へ消えてしまいます。
「まぁいっか」と諦めた瞬間、幾千里の彼方へと飛び去り、永遠に叶わぬ夢マボロシとなってしまいます。

それこそが、死の間際の私たちが後悔したことでした。

確かにその一歩は、今の景色の中にいる親や家族、まわりの人たちをガッカリさせたり怒らせたり悲しませたりすることかもしれません。
でも、その怒りや悲しみもまた「私たちが見えている今の景色」に過ぎないのです。
今のサークルの中の話でしかないのです。

その外にも世界があります。
景色が広がっています。
それなのにフタをしてしまう。
それでは中高生の頃にやっていたことと何も変わりがありません。

この景色を守りたい、この世界を波立たせたくない、、、
クラスの友達が世界の全て、家族が世界の全て、職場が世界の全て、自分が我慢すれば世界は平和に保たれる、今は大変かもしれないけどこれ
以上ヒドくしてはいけない、、、

でもそうやって目の前の世界を大事に守った結果、何があったでしょうか。

何も考えず無邪気に楽しむはずの学校(あるいは会社)へ、溜め息つきながらトボトボ歩いていく子どもの姿を見て、親はどう思ったでしょう。

生き詰まりとは命を絶つことを指すのではなく、この人生の中で自縄自縛になることを指します。

抑圧の惰性に身を投じた結果、目隠し状態の無限ループに生きることになってしまいます。
そんな一生をすごしたあと、死の間際に心に浮かぶ思いとはどのようなものでしょう。

「もったいないことをした」
「次はもっと冒険(挑戦)しよう」

そう、まさしくその最期の願いが叶って、私たちは何度も何度も生まれ直して、この世に来ているわけです。

しかしそのことを忘れて、またも抑圧の中に縛られて同じことを繰り返してしまう。
その目隠しリピートを仏教は輪廻の牢獄と呼んだということです。

生まれ変わり自体が牢獄なのではありません。
同じサークル(輪っか)の中に閉じこもり続けていることが牢獄なのです。

たとえ今の景色の中にいる人たちが怒ったり、悲しんだりしたとしても、それは今この景色の中だけのことです。

時が変わればそれもまた変わっていきます。
何故ならば、一歩先というのは彼らにとっても自らの外の景色であるからです。

私たちが今と同じ景色の中に居続けるなら彼らもまた今と同じ景色の彼らであり続けますが、私たちが外の世界へ踏み出したならば、彼らもまた
外の世界の景色に居る彼らとなるのです。





目の前の景色を守るために自らを抑え込んでしまうと、死の間際に感じた私たちの悲しみは、その後どれだけ時間が経とうとも消えることはあり
ません。

前世の悲しみや傷が残り続けるというのは、まさにこのことを指しています。

繰り返しになりますが、この世というのはフィルムの中の世界です。
本当の私たちはフィルムの外に居ます。
スクリーンや映写機や座席がすべて見える、こちら側に居ます。
新たなフィルムが何回流されようとも「こちら側」というのは「こちら側」であり続けます。
「今ココ」は何億年たとうとも「今ココ」のままなのです。

ケンケンパの一歩とは別のフィルムへの飛翔です。

過去の傷を癒せるのは上書きしかありません。
後悔を打ち消せるのは上書きしかありません。
こちら側の私たちというのは新しいフィルムを見ることで癒されます。
だから今の人生、今の世界を生きているのです。

過去に縛られる必要なんてありません。
ましてや過去世を気にかける必要なんて無いのです。

過去世で悪いことをしたら現世でその報いを受けるというのは正しい表現ではありません。
それはただ、自ら傷つけた過去世の傷が「こちら側」の今ココの私たちに残り続けているだけの話です。
その逆に、過去世で良いことをしたから現世で良いことが起きているというのも同じ理屈です。

こちら側の私たちがその時こうむった状態のまま、今ココにある。
だから、いま目の前の世界、今ココでやり直せば、現世の過去だけでなく過去世の傷さえも癒されていくわけです。

たとえ私たちの新たな一歩によって波風が立ち、目の前の世界が大揺れに揺れたとしても、波は必ずおさまっていくものです。

さらに言えば、それは心配しないように言った表現であって、実際は目の前の世界は大揺れに揺れてなどいないのです。
外の世界(次の一歩)が見えようとしている時に今までの世界にしがみついていると、あたかも大揺れに揺れているように見えるだけのことです。

いつまで経っても波がおさまらないのは、私たち自身が波立っているからです。
まわりがギャーギャー言い続けているのもまた、私たちが波立っているからです。

それらは私たちが過去(今までの視野、世界)にしがみついている結果に他なりません。

さっさと受け入れれば波はすぐおさまります。
それどころか、後ろを振り返らずエイッと一歩を踏み出せば最初から波風も立たないのです。

その一方、まわりが波立つことを恐れてそのままその場にとどまれば平和が保たれるかというと必ずしもそうとは限らないわけです。
やりたいことをやれずに私たちの心が波立っていますと、まわりもバシャバシャと波立って行きます。

たとえこれまでと同じ生き方をキープしても、自分が波立っているならばまわりはバシャバシャと波立っていく。
要するに、進むか進まないかによって嵐が起こるのではなく、進もうが進むまいが私たち自身が波立っているかどうかによってそれは決まる
ということです。


まわりを波立てたくないがゆえに次の一歩を諦めるというのは本末転倒であるわけです。

今の平和を守りたいから余計なことはしない、まわりに迷惑かけたくないから我慢する、というのは言い訳にはならないのです。

そうとなれば、もうやることは一つしかありません。

前世の死の間際の念願が叶って、生まれ変わったのが今です。
今世の死の間際の念願が叶って、生まれ直したのが今です。

他の誰でもない、私たち自身が心の底から願ったのが、今この瞬間なのです。

悩むようなことは最初から何一つ存在していませんでした。
私たちはこれまでずっと、実体のない言い訳と一人で綱引きをしてきました。

ここでやらなかったらいつやるのか。

これからずっと後悔を押し隠して、最期にまたもその後悔と対面することにするのか。
エイヤーとチャレンジして、そのあとコケようが着地しようがゲラゲラと大笑いをするのか。

輪っかの中にとどまり続けず、あとは、ほんの目の前の一歩をポーンと跳んでしまうだけの場面です。

子どものころの感覚にスッと戻ればすぐ思い出します。
心や体に感じるものがあったはずです。
ジッとしていられない、とめどなく湧き上がる衝動を。

頭で考えているうちは何も聞こえません。

私たちが跳ぶのではなく、私たちを包む世界が流れているという、あの感覚。

私たちのまわり全体から、そして細胞の奥底から、フワーッと流れ出るこの風に乗っかって。

ピョーンと。

さぁ、今です!





(おわり)



生まれ直しのススメ(実践編・前編)

2018-12-12 21:24:35 | 天地の仕組み (Basharサポート)
日々の選択はほとんどが自動モードで行なわれています。

選択というのは、頭を介して意識的に行なうものに限らず、毎瞬毎瞬おこなわれています。

もし毎瞬すべてを自ら選択していたら、それに追われてしまってまわりを見る余裕は無くなってしまいます。
そのためあらゆる生物は大部分を自動運転に任せています。

では自動運転のプログラムはどこから来ているかというと、動物ならば本能となりますが、人間の場合それに信念、習慣、感性といったものが
加わってきます。

命を維持するための自動運転は本能が司っていますが、それ以外の選択は、信念や習慣が運転手になっているということです。

私たちはそうしたものに一日のほとんどハンドルを預け、ごくたまにハンドルを奪ってグイッと回しているということになります。

そのように、これまでの信念や習慣というものがハンドルそのものや車体全体に染み付いていますので、何か普段と違ったことをやろうとすると
不安という形になって表れ、無意識のうちに自動ブレーキがかかることになります。

ですから例えば「今ココの自分を上書きすれば過去も癒される」「その一歩はほんのわずかだ」などと言われても、いざそれをやるとなると断崖の
谷間を跳ぶがごとき一大決心を迫られることになるわけです。





今どきの車でいえば、車線変更のためハンドルを切ろうとしたら安全装置の自動制御がかかって強制的にハンドルが切れないような状態になって
いるようなものです。

それでもなお右に曲がろうとするならば、私たちはあらゆる警告アラームを無視して、力を入れてエイヤーとハンドルを回さなくてはなりません。

車体は大真面目に危険と判断しているわけです。
それを知った上で力づくでハンドルを切るとなると、やはりそれは相当な覚悟が必要となるでしょう。

これは頭で考えてどうにかなるものではありません。

「今ココを上書きするだけ」
「その一歩はほんのわずか」

そうしたものを理屈で理解できたとしても、日々の自動運転によって感覚として染み付いたものをオフにすることはできません。

結局その場でフンフン納得するだけで実際の行動まで辿り着かず終わることになってしまいます。


必要なのは、頭の理解を肌感覚に結びつけていくことです。

ということで、今回は実践編として空想ゲームをしたいと思います。

以前にも触れました、生まれ直しのドラマを題材にします。
本当に私たちが過去に戻ったとしたらどうなるのか。
疑似体験ではありますが、ある意味これはリアル体験とも言えます。

文字を追うだけでは脳内で終わってしまいます。
肌感覚が目的ですので、この空想遊びに感覚を預けることで一時的にも自動運転からスコーンと解放されることになります。

その瞬間、目の前にある断崖の谷間は消え去り、すぐその一歩が鮮やかに見えるようになるでしょう。



フラットな気持ちのまま過去へと思いを馳せてみます。
パッと浮かんだ景色へ心を向けてみます。
たとえば、

小学生の頃。
高校生の頃。
あるいは二十代の頃。

その中で何歳の頃でも構いません。
一つを具体的に思い出してみます。

漠然としたイメージで終わらせてしまうとこの遊び自体が成立しなくなります。
あせらず、ゆっくりお風呂にでも入るように、そこにひたっていきます。

昔の自分。
子どもの頃の自分。
まずはどれか一つにフォーカスしましょう。

大体このくらいの歳の自分というのが浮かんだら、その頃の自分に心を向けます。

何かのイメージが浮かびましたら、そこから次々と浮かぶにまかせて、そのままほっときます。

ポツポツと浮かんできましたら、このゲームのことは忘れて、そこにひたったまま過去の感覚を思い出してみます。

あぁ子供の頃はこういう感じだったなぁ、とか、高校生の頃はこういう感じだったなぁ、とホワーンとした心地を楽しみます。

皮膚感覚を思い出してきますと、感覚記憶がポツポツと蘇ってきます。
それに引っ張られて、心も当時のそれに戻っていきます。



気がつけば、その頃の私たちに生まれ戻っていました。

桜の舞うポカポカ暖かな陽気です。

優しい風を感じられましたら、そこから今日の生活が始まります。

さてこのあとは何でしたっけ?
学校ですか? それとも家族との食事ですか?

視界には私たちの手足が見えます。
まわりにはあの頃の家族や友達がいます。

いや、それはあの頃ではなく、今はもう目の前の家族や友達です。

その生活、その空気感を思い出しましたら、私たちはすっかり生まれ戻ったということです。

まだピンと来ないかもしれませんが、このまま過ごすうちに少しずつそれを実感していくようになります。

私たちは今から何でもできます。

もちろん、昨日と同じように学校に行って授業を受けることもできます。
いきなり休んだらまわりから心配されますしね。
懐かしさに浸ってじっくりそれを味わうのもいいですね。

今の私たちは夢の中です。
縛られず何でも出来ます。

授業は今やチンプンカンプン。
でもそれを一通り受けましたら、あとは放課後です。

心のストッパーを外して、トンデモないことをパーッとやっても全く問題ありません。

だってこれはすでに一度経験してることなんですから。
また同じように真面目にやったって、つまらないじゃないですか。

やりたいことを好きなようにやっても、誰にも咎められませんし、陰口も叩かれません。

何をしてみたいと思いますか?

心に何か浮かんで思わずニヤっとしましたか?

さすがにこれはなぁ〜と思いつつニヤけている自分がいたなら、いったいそれはどんなことでしょう?

あのときは出来ませんでしたが、今ならそれをやってしまえるんですから。。。



さて、これは失敗をやり直すという方向性のものではありません。
突如そこに放り出された時に、私たちは純粋に何をしたいか感じるのが目的です。

なかなかすぐにはイメージが湧いてこないかもしれません。

だから具体的な景色、その肌感覚を思い出すところから始めました。

たとえば高校生の自分でしたら、そこには友人が居て、学校や部活があります。
ツボに入ってゲラゲラと笑いが止まらなくなってしまうあの心地。
一緒に汗を流した時にサーッと吹き抜けた風のなんて気持ちのいいことか。

そうした感覚を思い出したところで、今そこから自分の毎日がスタートすると本気で信じるわけです。

すると、いろんなことが胸に湧き上がってきます。

楽しかった日々をもう一度嚙みしめよう
せっかくだから何か他のこともやってみよう
あ、そうだった
自分はこんなことやりたかったんだ
すっかり忘れてた


体が軽い、疲れもしない、明日も決まっていない、レールもない、何にも染まっていない、何のしがらみもない、未来は無限、何をしてもいい、
私たちはいま何でもできる!

アレしたいコレしたいと思うことがいくつも湧いてきます。

あの頃の私たちはそれをやらなかったけど、今この再スタートした私たちなら、それをやれるし、今すぐやってみたい。

三日坊主とかそんなことは気にしない。
失敗したってカッコ悪くない。
笑われたって構やしない。
転んだところで死にはしない。

頭に流れる「どうせ上手くいかないからやめよう」なんて脳内アナウンス、ちゃんちゃらおかしい。
だって結局何もやらずに今日まで来てしまったんだから。

自分を止めるものは何も無い。
とにかくやろう、やってみよう!



もう一度人生を再生リピートをした私たちは無敵の快進撃です。

何が無敵かって、上手くいっても上手くいかなくても何も気にならないからです。

他の人たちは、歳相応の不安や心配に耳を貸しています。
でも私たちはそんなこと気にするはずもなく、自由気ままに、やれなかったことをやっているのでした。




たとえば一度クリアしたテレビゲームをもう一度やる時、私たちはどんなことをするでしょう。

真面目にただゴールを目指すのではあまりにも退屈です。刺激も何もない。
なので、自ら刺激を求めてわざと馬鹿なことやったり危ないことをやったり、前回は行かなかった寄り道をしたりするでしょう。

はた目を気にすることなく、もちろん何か打算があるでもなく、ただ単純に自分が楽しむために。

それが出来るのはゴールに辿り着くことを知ってるからです。

一方、まだ見ぬゴールに向かっている時は最後まで行けるのか分からず突き進んでいきます。
ゴールに辿り着いてゲームをクリアしたい、ホッとしたいという気持ちが頭の中を占めています。
その結果、足元だけ見て黙々と山道を歩き続けるような状態になるのでした。

しかし一度ゴールしてしまうと、今度はクリアの達成感が追えなくなるので、過程そのものを楽しみたくなります。
もうゴールに着くのが目的ではなくなる。
だから顔をあげてまわりの景色を楽しんだり、あるいは脇道に逸れたりと、心は自由自在に飛びまわります。

まして、テレビゲームと違ってこのリアルゲームはそもそも決められたゴールが存在しません。

どのゴールが正解だなんてものは無い。
全てがゴールですので、ゴールに辿り着くのが目的というのは、もとより成り立たない話であるわけです。

ですからゴールした時に得られるのは達成感などでなく、そこに至るまでの満足感ということになるのです。

テレビゲームでいえば、それはまさに再プレイをする時と同じ状態だと言えます。





子供たちはわざと危ないことをやります。

真面目に型にはまることが生理的に苦痛極まりなく、なぜか危ないギリギリをやると心の底から喜びが湧き上がる。

馬鹿なことよしなさい、何でわざわざそんなことするの、と母親に怒られる。
その言葉の意味は頭で理解できるものの、奥底から湧き上がる喜びは抑えきれない。
説明はできないけれども、心から楽しいのだから仕方ない。

しかしそれが大人になるにつれ、苦痛が麻痺して退屈さに耐えられるようになっていく。
さらには理屈を重ねるほどに頭の中に住むようになり感覚受信が薄れていく。
苦労を知って損得勘定でリスクを避けるようになっていく。

先々のことなんて考えず、今この瞬間に生きていた子供の頃、わざと違ったことや危ないことをやりたくなるのが当たり前でした。

つまりそれこそが、天地宇宙と一つになった私たちの本当の心であるということです。

その結果怪我をしたからといって自分のやったことが間違いだったなんて思うことはありませんでした。
危ないギリギリをやっている時の高揚感はリアルなものだったはずです。
細胞の奥底から湧き上がる喜びだったはずです。

怪我なんていうものは単なる一つの結果に過ぎません。
いや、それどころか私たちが勝手に白黒判断をつけたものでしかないわけです。

血を流したから不幸だ失敗だ不正解だなんて誰が決めたのでしょうか。
それは単に生存本能から導き出された答えに過ぎません。
親から叱られた小言に過ぎません。

そこで得た喜びがあったのならば、それが全てなのです。





因果関係なんてものは単なる物理方程式に過ぎません。
それは白黒評価されるものではなく単なる数式です。

危ない橋を渡って怪我をしたというのは、例えば湯が冷めて水になるのと同じで、ただの現象に過ぎないわけです。

安定、安全というのは平凡、退屈と紙一重です。

何故わざわざ危ないことをしたくなるのか、それは未知に対する欲求そのものだからです。

原始人類が温暖な土地を離れ、わざわざ過酷な土地へと開拓を進めて行ったのも、それが根っこにありました。

子供の頃、危ないことの先にあった高揚感は抑えがたいものでした。
同じように、フロンティア精神に駆られて命懸けで大海原へ飛び出した先人たちの心にはキラキラと輝く虹色の景色があったわけです。

未知というのは現状維持とは真逆のものだと言えます。
つまりそれは安定安全と逆のものと言うことになります。

安定安全の中に居る人から見れば、その外というのはリスクを伴うものに映ります。
でも離れたところから眺めれば、それはリスクなどでなく単に未知という表現のほうが妥当と思うでしょう。

中に居る人にとってはその外というのはハラハラとドキドキが共存する複雑な世界であり、人によっては恐怖にも思えるわけです。

見えない先の景色というのは、ケンケンパの次の一歩、地面に描かれた次の輪っか(サークル)のようなものです。
そこに立って見える景色というのは、一歩手前では決して見えないものです。

怖がりではあればあるほど、見えない景色を必死に想像して、確実に安心できるようになるまでは踏み出せなくなります。
そのうち「足をくじいたらどうしよう」とか余計な心配が始まって、結局踏み出さないことを正当化することになっていきます。

でも、未知に対する衝動というのは誰もが必ず胸に抱いているものです。
宇宙のこと、生命の仕組み、古代の謎など、挙げればキリがありません。

既知というのはすでに今このサークルの中にあるものです。
いわば安全、安心の象徴です。

それに対して未知というのは間違いなく、今のサークル(輪っか)ではなく、次の一歩にあるものです。
それは安全安心を投げ打って飛び出した先にあるものということです。

つまり危うさと未知というのは裏表であるわけです。

身近なところでもアスレチックやジェットコースターなど、わざわざ非日常的な危うさを求めるのは、ひとえに深層意識の潜在的な衝動を満たす
ためだと言えます。

子供の頃はわざわざ危ないことを喜びました。
それは未知を求める魂の咆哮であったわけです。

それが今の私たちは危ないからといって次の一歩を踏み出せずにいる。
現状が壊されてしまうかもしれない、何かトンデモナイことが起きてしまうかもしれない…

でも危ないという気持ちこそが、その一歩が未知であることの証明に他なりません。

「危ない」と思ったならば、それが逆に正解であることを示唆しているわけです。

「危ない橋を渡りたい」

それが本当の私たちの思いなのです。





(後編につづく)