これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

『これでいいのダ』 (つづき)

2019-03-18 17:34:18 | 天地の仕組み (Basharサポート)
過去も今も未来もすでに今ここに存在しているという説明をしてきました。

続いて、未来がすでに存在しているのなら運命は変わりようがないのか、という話に触れたいと思います。

再び、一瞬一瞬というものを、無限に広がるアザラシの頭に喩えます。
その一つ一つが、一瞬という一枚絵に顔を覗かせる私たちでした。

それらを繋いでいくと、それは一直線ではなく無限に分岐した網の目になっていきます。





あらゆるバージョンの過去や未来が、すでに今、存在しており、その全てのバージョンの全ての瞬間に私たちは存在しています。

それらは分離して存在しているのではなく、水面下で一つに繋がっています。
それを感覚的に分かろうとするなら、私たちの指が無限に突き出している状態とも言えますし、腸壁の細胞がビッシリ並んでいる光景に喩えること
もできます。

そして時間の経過というのは、小指から薬指、薬指から中指と、意識の向け先をポンポンとチェンジしていくことで感じるものでした。

今ここでAとBという選択があるとします。

仮にAを選んでその先ポンポンと未来へ進んでいくとしますと、Bという選択をした先のアザラシは魂の宿らない抜け殻になるのかというとそんなことはありません。

AラインにもBラインにも私たちの魂は存在します。

魂というのは別個に分かれておらず大きな一つの塊です。
いわゆる分け御霊という表現についても、水面上だけを見たものでしかなく、水面下では一つに繋がっています。

大きな魂の表面には沢山のトゲトゲがついていてまるで金平糖のようになっています。
そのトゲの一つが水面上に飛び出して氷山の一角と成っています。

別の表現をすれば、超巨大な風船があったとしますと、その表面を電子顕微鏡で拡大するとミクロの凹凸になっています。
その出っ張っている凸の一つ一つが、水面から顔を出したアザラシということになります。

今この私たちは、一つの凸に意識をフォーカスしている状態なので、他の凸は感じ取れません。
しかし風船のほうでは他の凸のことも感じ取っているということです。

今ここで感じている意識を主体にして考えるとややこしくなります。
指先の先っちょに心を向けた状態、それが今この私たちです。
ただ手のひらあたりにも意識はありますし、腕にも胴体にも意識はあります。

何層にも意識が重なっているということです。

天地宇宙は、あらゆる体験、あらゆる見方、あらゆる角度、すなわち「あらゆる視点」というものを網羅したいがためにこのような形と成りました。

この現実世界に意識を置いたままそのことを考えようとすると、途方もない数の並行世界が存在し、それら全てに私たちが繋がっているという
ことになりますのでイメージが追いつかなくなります。

指先の皮膚のミクロの先に意識を置いていると、他の部位のことなど想像もつかないのと同じです。

ならば逆から考えた方が分かりやすいかもしれません。
まず私たちという途轍もなく大きな存在があって、それは外側へ行くほどミクロのように細分化されているという流れです。

その一番表層の電子顕微鏡で見るようなミクロの世界の凸の一つ一つが、現実世界の一瞬(一枚絵)に繋がっています。

私たちはそのような出っ張ったところに順番にフォーカスして、時間という流れを疑似体験しているのでした。





今この私たちにとって、確かにこの宇宙は無限に広がる世界で間違いありません。
ミクロの領域から宇宙の彼方まで、途方もなく大きい世界です。
それが単なる一枚絵でしかなく、しかもそのあらゆるパターンが無限に存在しているとなると、現実離れしすぎてて受け入れがたい話です。

でも、この現実世界というものは固定化したものではなく無限に微小な振動の集まりであることを思い出して下さい。
この無限に広がる宇宙全てが、分子レベルでは凄まじく活発な動的世界であるわけです。

それはつまり分子レベルよりもさらに深い、水面下の世界がいかに動的であるかを表しています。

この現実世界は、光によって照らされたフィルムの投影です。
これが実体を伴う現実であるのは間違いありませんが、それを生み出す水面下の本体というものはさらに無限の存在であるわけです。

水面下の無限の動的存在が水面に触れてこの現実世界が生じます。
だからこそ、この天地宇宙が一枚絵として存在し、それが無限に重なっているというのはごく自然なことだと言えるわけです。

それらは一個一個緻密に作り込まれるのではなく、すべて水面下の無限の動的存在の投影です。
投影だからこそ一瞬で現れます。
最初から全てが存在していて、それが見えているか見えてないかだけの違いです。

プラネタリウムの星は天井に一つ一つ描かれたものではなく、中心から照射されて浮かびあがったものです。
それらは照射する前から全てが存在しています。
少し乱暴ですがそれに近いと言えるかもしれません。

目の前に無限に分岐するレールが広がっているということは、未来は完全に私たちの自由意志によって選ばれるということです。

そしてそのどれを選ぼうとも、選ばれなかった残りも、他の私たちが必ずそれを味わっています。

全てのパターンが選ばれているのですから、そんなに悩まなくてもいいのです。
もちろん、悩むこと自体も大切な体感の一つなので大きな意味はあるのですが、種明かしをしてしまうとそういうことです。

ですから、他の道の方が良かったかもしれないなどと後悔したり不安になったりする必要などカケラも無いということです。
過去を悲しむ必要なんて微塵もないわけです。

全てのバージョンがあらゆる私たちによって味わわれるのだから、今この私は本当に好きなようにやればいいのです。

そっちの私たちは、それはそれで意識のフォーカスが働いていて大元の私たちはその体感をキャッチして観察分析しています。

ただ別の方向へフォーカスしている今この先端の私たちにはそれが感じ取れないだけのことです。

どれもが正解というのはそういうことです。

無限にあるルートの中で、このルートを味わうとどんなことを思い、どんなことを感じるのか。
それが今この私たちが存在する理由です。


ですから私たちがやることはたった一つ。
ただ「味わうだけ」です。

それによって生じたどんな思いもどんな感覚も、全てがOKであるわけです。

なぜならば、私たちの根源である大元の私たちは、ありとあらゆる感応を求めているからです。
ポジティブだけを選り好むなんてことはしません。
一つも取りこぼすことなく、すべてを均等に知りたがっています。

私たちがいちいちNGを出していても、天地はオールOKであるわけです。



さてここまでは、ひとまず自分一人のことについて書いてきましたが、これと全く同じことがまわりの他の人たちにも当てはまっています。

つまり他の人においても、未来や過去のあらゆるパターンの無限のアザラシの顔が出ている。
無限の指が水面上に出ているということです。

複雑に感じてしまわないように、異なる人同士の関係性についてシンプルに表現してみます。

Aさんにとってのアザラシ①が顔を出して覗いた世界は、BさんにとってのアザラシXが顔を出して覗いている世界です。
この一枚絵というのは、無数の人たちが顔を出して覗いている世界であるわけです。
一瞬一瞬が全てそのようになっています。

一人称として見た場合、地平線の彼方まで私たちのアザラシ頭が広がっていますが、その一つ一つにおいて他の人たちが折り重なっているという
ことです。

ですから、その一枚絵というのは自分が創造(参画)した世界であると同時に他の全ての人たちが創造(参画)した世界でもあるわけです。
共同作業によってその一枚絵が成立しているということです。

創造というのは、照射のことであり、指先の先へのフォーカスでもあります。

自分自身にとっての過去未来に広がる無限のアザラシはその根元で繋がっていました。
その根元をさらに辿っていくと、他の人たちの無限のアザラシの根元と繋がっていきます。

さらにさらに辿っていくと、もっと多くの母集団と繋がっていきます。
さらに辿っていくと、人類やあらゆる生物、天地宇宙、根源へと繋がっていきます。

天地宇宙はあらゆる体験、あらゆる見方をするため、あらゆる視点から観察を行っています。
私たちというのはその観測点の一つということです。


その時間その空間に、観測点が無限に存在しています。

自分以外にも他の人たちが沢山いて、他の生き物が沢山いて、様々な存在が沢山います。
有機物も無機物も何もかも全てが観測ポイント(視点、窓)になっています。

変わりばえのない景色でも、角度を変えれば見え方が変わってきます。
観測者そのものの形態が違えば、さらに見え方や感じ方は変わっていきます。

観測ポイントの条件を変えていけば、ありとあらゆるパターンが観測できます。

それが、様々な存在がこの世に溢れかえっている理由です。

そしてその一つ一つも、それぞれあらゆるバージョンへ分岐していきます。
全ては、観測ポイントや観測条件を埋め尽くしていくためのものです。

私たちが一つしかない観測を行なっているように、過去未来あらゆるバージョンの私たちも、そしてあらゆる他の人たちも、他の生き物たちも
全てがオンリーワンの観測を行なっている最中ということです。

いまどき「オンリーワン」などというと、思考ストップのお花畑に使い捨てされてしまって随分と安っぽくなってしまいましたが、オンリーワン
というのは極めて深い意味が込められており、本来、軽々しく使うべきものではないわけです。

あらゆる全てのパターンがオンリーワンであるというのはまさしく真実です。

だから、他の人たちに対して腹が立つことがあったとしても、それはその人の務めを果たしている最中だというのが客観的事実と言えるでしょう。

そしてそんな相手に不愉快になっているあなたも務めを果たしている最中であるわけです。



あの時ああしておけば良かった。
こうしていれば上手く行っていたのに。
今この結果は残念だ。

そう思うことがあるかもしれません。
ただ「あの時ああしていた自分」はちゃんと今も存在していて、それはその自分がしっかり経験しています。

それを今この私も経験したかったと思うのは欲張りというものです。まさに木を見て森を見ずです。
私というのはこの小さな世界だけにとどまるものではありません。
無限に存在していることを忘れてはいけません。

その中で、今この私は、今この視点からの観測をするために存在しています。
(正確に言えば「そのためにここにフォーカスしています」)

ですから、今この景色に集中すればいいのです。
それ以上もそれ以下も必要ありません。

何かに成功した自分も、失敗した自分も、観測する立場からすればどちらも必要不可欠な存在です。
「他と違う」というその一点において、全ては等しく価値があるわけです。


今の私たちが体験できなかったパターンは、必ず他の私たちが体験しています。
違うパターンについては他の私たちに任せておけばいいということです。


過去を悔やんだり引きずったりする必要は全くありません。
自分を責める必要なんて全くないのです。

あらゆるパターンあらゆる視点を天地宇宙が望んでいるのですから、どの展開であろうとすべてがそれに適っています。
むしろ今このパターンの自分を堂々と誇っていいわけです。

あらゆる選択、あらゆる展開、あらゆる結果が、全てGOOD。
すべてが天地宇宙から祝福されています。

この今がいい。
今この私たちがいいわけです。

まさにこれでイイ、これがイイのです。

信念や価値観というフィルターを通すことで見え方が歪められるという、そのこと自体すらも観測条件を変える(=観測ポイントを増やす)という
点において天地はウェルカムということになります。

信念や価値観はノイズとなって、物事がありのままに映らなくなるかもしれませんが、それすらも観測反応が変わるという観点に立てばオールOK
なわけです。

本当にすべてのあなたがオールOKなのです。

では信念や価値観への囚われを無くそうとする努力は無意味なのかというと、それをやろうとモガくこと自体が一つの体験であり、新たな知見や
気づき、感応が生じるイベントとなっていますのでもちろん意味はありますし、その苦悩はその先々の道選びに大きな影響を及ぼします。

信念や価値観も含めて、何もかも全てがオールOK。
つまり天地宇宙では、ポジティブだけでなくネガティブも等しく許容されているということです。

悪というものがなぜ潰えないのか?
天地の理に敵っていないものは淘汰されるはずではないか?
遥かに進化した存在の中にもネガティブな存在が居るのは何故か?

それは善も悪も、単なる立ち位置の違いでしかなく、どちらが良い悪いというものではないからです。
「観測点が増える」「その観測点たる個々の味わうパターンが増える」それだけが天地宇宙の望むものだからです。

もちろん、いわゆる悪の道を進んだりネガティブな選択をしていった先はそれに基づいた展開となりますので、それを良しとするか嫌だと感じる
かは個々の受け方に依るところです。

それによって苦しむ、悲しむという展開になったとしても、天地宇宙はそれもまた等しく望むべき観測として受け入れるだけです。

様々な生き方、様々な展開、それら全てが「多様な観測」というものを満たすことになります。
様々な価値観、様々な考え方にしてもそうです。

ですから、まわりの人たちが何をしようと、あるいは何を言おうと、それはその人たちが受け持ちの観測を行なっている最中ということになります。

それを羨んだり怒ったり悲しんだりすることに全く何の意味もありません。
ましてやそれと自分を比較する作業に何の意味があるでしょうか。

同じように、自分の未来や過去へ心を囚われ、そうでなかった場合の自分と比較することにも何の意味もありません。
それはそこの私たちが受け持っていますし、私たちは今この流れを受け持っているのです。

私たちは、今この瞬間に集中するだけです。
それが天地宇宙の理そのものです。

昨日のことは昨日の私たちに任せてしまっていい。
明日のことは明日の私たちに任せてしまっていい。


今の目の前だけを考え、喜び悲しみ、怒り笑い、一喜一憂することこそが私たちの役目です。

「どちらがイイかは凡夫には分からない」ではなく「どちらもイイ」。

もう何がどうなろうとも、間違いなく、今のこれが一番なのです。





(おしまい)





『これでいいのダ』

2019-03-18 17:33:02 | 天地の仕組み (Basharサポート)
年が明けて早3ヶ月が経ちました。

嵐の前の静けさと言われるように、物事というものは或るとき突然にして変わるものではなく、すでに目に見えない形で始まっているものです。

そういう意味で、私たちは激動の真っただ中にいると言えるかもしれません。

水面下には大きなうねりがあります。
しかし表の顔はいたって静かです。
ほんのわずか、変化とも言えないような変化があるだけです。
それが気がついてみればダイナミックな変化と成ります。

地球の姿こそは、まさにそれそのものです。
穏やかな地殻の下ではマントルがパワフルにうねり、時とともに海は山に、山は海に変化し、大地が海を渡っていきます。





大地が大きく変化していくのが自然の姿ならば、私たちの世界が大きく変化していくのも自然の姿と言えるでしょう。

さて今日は、年明け一発目の再出発として今一度原点に立ち返り、「今ここ」について時間・空間の話を交えながら進めていきたいと思います。

見える世界は、穏やかな静的世界。
見えない世界は、エネルギッシュな動的世界。

今年も宜しくお願い致します。





さて、この世というのはスクリーンに透過された幻影に喩えることができました。

そして一瞬というのは一枚絵そのもので、それが一枚一枚、隙間なく存在しているのがこの世の構図でした。

もちろんこれは喩え話ですから、はかない夢まぼろしだから軽んじてもいいということではありません。

そうした一枚一枚の絵画が私たちの前を次々と通り過ぎる、もしくは私たちがその一枚一枚を通り抜けて行っている。
それが「時間」という感覚になっています。

そして本当の私たちというのはスクリーンの上ではなく、もちろんフィルムの上でも、映写機の中でもなく、それら全てを俯瞰する客席に居る
のでした。

そうして、私たちの魂が映写機の光源のようにフィルムへ照射されると、その先のスクリーンに一枚絵が映し出されます。
それが今この一瞬であるわけです。

実際の映画でもスクリーンを離れてフィルムそのものを見てみますと、そこには始まりの一コマから終わりの一コマまでが存在しています。

同様に、スクリーンに映し出される私たちというのもフィルムの一コマですから、スクリーンを離れれば「過去の私たち」も「未来の私たち」も
すべて同時に存在しているということになります。

ここまではこれまでお伝えしてきたとおりです。
(※バシャール 2017『世界は見えた通りではない』参照/ヴォイス出版)

「過去も未来も今この瞬間に存在している」というのは何度聞いても感覚として理解しにくいところかもしれません。
話を先へ進める前に、まずこの部分について説明したいと思います。

今この瞬間において知覚している私たちの魂というのは氷山の一角でしかありません。
それは氷床の割れ目からアザラシがヒョコッと顔を出している姿に喩えることが出来ます。
もちろん氷の下には胴体があります。
この場合、氷から上が現実で、その下は非現実の世界ということになります。





ここまでは漠然と感じているところではないかと思います。

そこで時間の経過というものを考えると、「まずこの穴」「次はこの穴」というように順番に顔を出していく姿をイメージするかもしれません。

私たちが一枚絵を次々と通り抜ける、あるいは一枚絵が次々と私たちを通り抜ける、という表現からすればそのようなイメージになるのが当然
です。
アザラシの頭の一つに意識をフォーカス(集中)させている立場に立てば、次はこっち、その次はこっちと移動しているように感じるのが自然で
しょう。

ただ実際は「全ての穴から顔が出ている」というのが真実です。
地平線の果てまで広がる氷の世界で、見渡すかぎり無限にアザラシが顔を出しているというのがこの世の姿です。(ちょっとしたホラーですが)

そのどれもが自分であり、それぞれが今この瞬間それぞれの一枚絵を体験しているということになります。
順番に、ではなく、同時に味わっています。

そんなことがあり得るのかというと、それらのアザラシは胴体から下ですべて繋がっているので、ごく当たり前にあるということになります。
(絵的にはますますホラーですが 笑)

例えば、私たちの手には指が5本ついています。
それらはすべて私たちに間違いありませんし、もちろん何の違和感もありません。

そして小指の先へ意識を向ければそこを感じ取れます。
人差し指へ意識を向ければ人差し指を、親指に向ければ親指を感じ取れます。
そして小指を感じ取っている時、他の指の感覚は消えています。でも他の指が無くなったわけではありません。

意識は一つにしか向けられませんが、間違いなく他の指は存在していますし、それぞれ今この瞬間を体験しています。

水の中から五本の指を出しますと、水面上の世界ではそれぞれが別々の存在に見えます。

今この瞬間を体験している私たちというのは、小指に意識を向けた状態と同じということです。
他の指は未来や過去の私たちです。

先ほどの雪氷の世界で譬えるなら、無限に顔を出しているアザラシの中のアザラシAが今この瞬間の私たちということになります。

5本指も無限のアザラシも同じことを表現しています。

すべてが存在していて、その中のどこに意識をフォーカスしているかという話です。





一枚の同じ絵画だけを味わうだけではなく、次々と異なる一枚絵を味わうために、この世というのは存在します。

というより、異なる一枚絵を味わっていくという目的がまずあって、結果としてそれがこの世というものに成ったと言った方が正確でしょう。

小指だけを意識し続けるのではなく、小指の次は薬指、その次は中指、、、といったようにそれぞれを次々と味わっているということです。

何故そうなっているかといえば、新しい思い、新しい観測というのは、新しい刺激からしか生まれないからです。

私たちの根源は、まず初めに自己認識のために分化(投影)を行い、そしてさらなる分化を重ねて様々な経験を味わっていくことを目指しました。
経験によって生じる反応、感情や思い、気づきといったものを「観察」することが学び(喜び)と成っているからです。

ですから、この世は凝り固まったり止まったりすることは有り得ません。
流動こそが根源であり、根源の照射たる「一瞬」が、流動に応じて差し代わることによって、この世というものが実体化されているからです。
同じものを観察し続けてもネタに尽きてしまうだけです。

天地に停滞はない。
とどまることは無い。

「いつもと変わらぬ平穏な日々を過ごしたい」という願望は本質的に矛盾した表現だということです。

もしあなたが安定した状態を安心と感じるなら、流れ続けることが一番の安定状態ですから、流動こそが安心ということになります。
変化というのは流動の産物なので「変化こそは安定の実証」ということになります。

変化というものに不安を感じるというのは、天地の理に照らせば本末転倒であるわけです。
その不安の出どころは身のまわりの変化そのものにあるのではなく、変わることを良しとしない自身の信念体系にあるということです。





アザラシの景色に戻りますと、過去の私たちも未来の私たちも無限に存在しているわけですが、単に一つ一つを味わうだけならばその順番は
ランダムであっても何の問題もないはずです。

実は、私たちは一枚絵を一枚絵として味わうのと同時に、その一つ一つを一方向に順番に味わうことによって「変化」というものを体感しています。
つまり、一瞬と連続性、ダブルの経験を得ようと考えたわけです。

私たちは一方向の流れとして順番に味わうことを選択しました。
それが時間として今感じ取っているものです。

「時間は存在せず概念でしかない」と多くの物理学者が言っているのはそういうことです。
私たちが選択した体験方法の、その結果として生じた副産物が時間というわけです。

水面から突き出した五本指で言えば、今の自分は中指、2日前の自分が小指で、2日後の自分が親指というような話です。

全てが存在し、全てが私です。

2日前は小指に意識が向いていて、今は中指にフォーカスしていて、2日後は親指にフォーカスしている。
意識の向け先が次々と変わっているだけで、2日前の私は今この瞬間も存在しているわけです。

昨日の私も、明日の私も、今ここに居る。
言いかえれば、昨日や明日の私たちは今この瞬間においてそっちの私たちが担当しているということです。

全ての瞬間に私たちが存在していて、それはその私たちが受け持っている。
今この私たちが心配しなくても、そっちはそっちでちゃんと何かしらを味わっている。
だから、私たちは今この瞬間だけをしっかりと味わっていればいい。

「よっしゃ!こっちは任せとけ!」


それぞれの私たちにとって、それが共通して言えるわけです。

過去の後悔や未来の不安へ心を向ける必要は全くないということです。

それは、今この自分自身の存在を否定することになってしまいます。


(つづく)