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食う、寝る、遊ぶ

2019-05-12 20:42:01 | 天地の仕組み
今ココというのは様々な世界が折り重なって成り立っています。

この世というのもその一つですし、あの世もそうです。
私たちの肉体、私たちの心、私たちの魂も、それぞれ別の次元にあって、今ここで一つに繋がっています。

スクリーンに映された映像も、それを映す映写機も、それを見る観客も、それぞれ異なる次元、異なる層にあります。

そしてそれら全ての層を貫く一本柱、それが私たちです。
天の御柱とはまさに私たちのことを言っています。

あらためて、魂と心と肉体について考えれば「違う次元のものが一つに繋がっている」ということは感覚的に分かります。

私たちというのは、今ここにポツンと存在しているのではありません。

私たちは根源からこの世に至るまですべてを貫いています。
つまり、そのすべてに同時に存在しているわけです。

実際、この世で活動している時は地上にいますが、寝ている時は深みへ降りていく感じ、あるいは天高くへ上がっていくような感覚を持つところ
でしょう。

寝ている時というのは、私たちは一本柱の中でも普段とは違うポイントに行きます。

布団で落ちる時の感覚を今一度振り返ると、意識が薄れるというのは雑味がなくなって薄まっていくような感じになります。

微細になるということは、よりミクロな世界へ行くということです。
ミクロの世界というのは障害物のない状態ですから、天地の果てまで突き抜けた感覚に成ります。

ですから、より深みへ深まっていくとともに、天高くへ上がって行く感覚になっていくわけです。

起きている時、私たちは一本柱の突き出した地に足を着けて、平面方向に360度見渡すような状態になっています。
逆に言えば、そこだけにロックされた状態になります。

これはその階層に在る肉体というものに私たちが意識をロックしているからです。

寝ることによってそのロックが解除され、他の階層へ自由に行くことが出来るようになります。





この地上に様々な人たちが居るように、別のフロアにも様々な存在が居ます。

別次元の存在というと何だか怖い感じもしますが、それはこの世界でも他の大陸に行けば肌や髪色の異なる人たちが居るのと何ら変わりありません。

幕末の庶民はいまだ見ぬ異人の姿を妖怪や化け物のように描きましたが、もし異次元の存在へ恐怖心を抱くとしたらそれと同じ話であるわけです。

異国の人たちが根っこで繋がった「私たち」であったように、別の次元の存在たちもまた根っこで繋がった「私たち」です。

スクリーン映像を観覧する席へ行くと、そのような私たちがズラッと座っています。
それらは他人であって他人ではない、すなわち私たち自身です。

寝ている時の私たちは一本柱の深みへと静まっていき、自由自在に様々な交流をしていますが、そうした観客席に座ってスクリーンを観覧すると
いうのもその一つであるわけです。

このような話をしますと、時節柄、大嘗祭という神事が頭に浮かんでまいります。

大嘗祭とは新たに即位された天皇陛下の初めての新嘗祭、つまり初めて新米を神へ捧げる儀式とされます。

新嘗祭については初穂の実りを感謝する収穫祭としての意味合いが強いところですが、そもそも御饌(みけ:神に供える食べ物)というのは直会
(なおらい:神饌を食す行事)とセットのものです。
大嘗祭に関しては、むしろこの直会にこそ主眼があると言えます。

すなわち、神へ捧げた食事を共に食し、そして共に寝ることで神と一体となるというものです。

そう聞くと、古くさい迷信や単なる宗教儀式、伝統行事と思って即刻スルーしてしまいがちですが、その中身はとても先進的で科学的なものだと言えます。

共に食すことで物質を取り巻く次元でシンクロし、共に寝ることでさらに深みの次元でシンクロします。

みんなで鍋をつつくと心の距離が近づいて仲間意識が高まりますが、これも直会の原理が働いています。

同じ空間で、同じ時に、同じ鍋から、同じものを食す。

野性においても食事という行為は、睡眠に次いで生物が無警戒になっている時です。
そこに100%集中するということは、壁を無くした丸裸の状態になるということです。

壁を無くしてフルオープンの状態で味わっている時、私たちはロックが外れて物理次元だけでなく他の層まで開いた状態になっています。

つまり誰かと向かい合って同じものを食べると、複数の層でシンクロした状態になるということです。
同じ釜の飯を食べた仲という戦友同士の言葉がありますが、もう理屈抜きで仲間意識が深まりお互い強い絆で結ばれるわけです。

貴族社会のパーティーやサラリーマン社会の接待なども同じ理屈によるものです。
食べるという行為はリラックスそのものであり、胸襟を開くことになります。

そもそも、全ての生き物にとって食事というものが単なる生命維持のための行為であるならば、無防備になるという生命の危険を冒すようなことは
やらないはずです。

味わうことなく乱暴に短時間で終わらせるように私たちも含めて進化していたでしょう。
そうではないということは、ただ物質的な栄養を摂るだけでなく、他の理由もあったということです。
つまりは他の層における交流、すなわち自分の中での循環であり、天地との交流であり、そこには捕食仲間だけでなく被食者すら含まれるという
わけです。

食べ物に感謝をして、しっかり味わうということは全ての生き物に共通する基本です。
味わわずにかっこんだり、テレビを見ながら食べるというのはこの基本に反してしまいます。

同じお店の料理を、仕事の接待などのかしこまった席で食べるのと、気心の知れた身内で食べるのとでは本当に美味しさが変わるはずです。

食べるという行為は、この次元だけで完結しているものではないわけです。

ちなみに、正月おせち料理というのも歳神様と食を共にする神事です。
祝い箸が上下両方とも使えるようになっているのは神様と自分でそれぞれ使うためのものです。

そうと知らなくとも私たち日本人はみんな、毎年、神人一体を経験しているということです。





大嘗祭においてはそうした「共に食べる」という行為に加えて、さらに「共に寝る」ということが大切な要素となります。

歴代天皇も、大嘗宮に入られて(そこで寝て起きて)出てこられた時には本当に異なるたたずまいに成られたと言います。

寝るという行為は、より深い次元でのシンクロを意味します。

ですから大嘗祭における変化というのは、決して別の存在が乗り移ったということではなく、高次の存在にシンクロして振動数が変わったことに
よるものと言えます。

そういう意味では神事の前と後でも、同じ個であることに変わりないと言えますし、しかしながら異なる存在になったと表現することもできる
わけです。

大嘗祭が一代一度限りであるのはそういう理由からです。

なお、新嘗祭が宮中三殿で行われるのに対して、大嘗祭が大嘗宮という大規模な祭場を新設して行われるのは最上の客をお迎えするためのもの
だからです。

これを天皇陛下のため、あるいは単なる儀式のためと考えると、贅沢だの華美だのという損得論が始まってしまいます。

例えば人間社会においても、外国から大切な方が来日した時には国賓として最上級のおもてなしをします。
それを贅沢ではないかとケチつけて安くあげるのは野暮というものです。

もちろん、お金をかければいいというものでもありません。

私たち個人に当てはめても、本当に大切な人を迎える時は、まず喜んでもらいたいという気持ちが先にあります。
お金にモノを言わせて豪華にすればいいということではなく、相手のことを本当に敬うなら自分のできる精一杯をやろうと考えるわけです。

それは理屈などではなく、そうせずにはいられないものです。

人間相手でさえそうなのですから、ましてや相手が神様となれば尚更です。
誠意の問題ですから、豪華にしようとか安く済ませようとかそういう発想にはなりません。

こうした論議は、そもそも大嘗祭が何のためのものであるかを前提にしなければ成り立たないものです。
つまりは宗教的儀式であることを前提にしなければ成立しないものです。

しかし政教分離の観点から、国事行為としてはそれを認めることができません。
結果、分からない人には余計分からなくなってしまい、無駄遣いだ何だという話になってしまいます。

そういう意味では、これが国事行為ではなく身内の私的行為であれば、宗教的儀式であることを公にすることができ、誠意を尽くしていれば対応
可能な範囲に縮小されても失礼にはあたりません。

ただ繰り返しになりますが、ひとたび国事行為と決めたなら、これは誠心誠意できるかぎりのおもてなしでお迎えすることが必要となります。
金額の問題ではありません。今さらあれこれケチをつけることは無礼の上塗りになるだけです。

そうして、客人(神)が帰られれば、建物は素に戻ります。
他のことに使いまわすのは尊い存在を貶めることになるからです。

日本は遥か太古から千年二千年とこうした神事を引き継ぐことによって守られてきました。
今こうして国が平和に続いていることが証拠です。

それに対して今の憲法というのは、わずか70〜80年前に占領軍がたったの9日で急ごしらえした寄せ集めに過ぎません。
全否定するつもりはありませんが、全肯定してしまっては国を危うくするだけです。

歴史という側面からしても、今この時というのは氷山の一角です。
今の私たちが自分たちの力だけで生きていると思うのは愚かしいことです。

私たちは誰もが先人たちの叡智によって生かされています。

そのことに対して謙虚になるのが私たちが第一に為すべきことでしょう。





さてだいぶ脱線してしまいましたので、もう一度話を戻したいと思います。

私たちは毎晩寝て落ちますと、深い次元でシンクロ状態となります。
譬え話として挙げた一つに、大型スクリーンの客席というものがありました。

客席の面々は、過去の私たちであったり未来の私たちであったり、あるいは遠い地の私たちであったり、座標と時間軸の異なる様々なパターンの
私たちであったりします。

はなっから一つの心ですから、スクリーンを観る時は、まさに心が一つになっています。

一緒に泣き笑い、拍手し、ブーイングをする。
これを画面の自分に浴びせられたものと捉えると地獄のような恥ずかしさに思うでしょう。
死後の閻魔様とはまさにこの状態を指しています。

でもそれは決して自分一人をあげつらって非難するようなものではなく、共に参加する仲間たちがそれぞれ自分自身を応援する姿であるわけです。

我がこととして厳しい言葉を投げかけもしますが、誰にも負けない一番の応援団です。

それは故郷の仲間たち、故郷の家族たちそのものです。

故郷というものを今一度考えますと、それは現実の物理世界だけでなく、それよりも深い次元まで広がって繋がっているものです。
私たちが故郷に帰るとホッとするのは、雑味が無いまま幾つもの階層までフルオープンで広がるからです。

スクリーンをみる観客席というのもまさにそれと同じ状態と言えます。
ハラハラドキドキしながら眺めている。
勝とうが負けようがどっちでもいい。
プレーを見ているだけで嬉しい。

その繋がりというのは現実世界の故郷よりもさらに深く幾層にも渡っています。
ですからそこに行った瞬間、私たちは本当の故郷を感じるのです。

スクリーンの上で私たちはバラバラの存在を演じていますが、幾層も降りていけばみな一つとなります。

「私たち」というのは複数名詞ではありません。
「私たち」という一人称であるわけです。






(つづく)