これでいいのダ

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天地の心はすぐそこに

2015-05-11 07:40:47 | ひとやすみ
先日、ゴールデンウィークを利用して職場のリニューアルがありました。
場所はそのままなのですが、回線工事にあわせて古くなった机や収納棚を一新することになりました。
たまたま私の席は一番奥なので、そこからフロア全体を見渡すことができます。
手狭なところに80人がひしめきあっているので、なかなかに濃い景色です(笑)

連休明けに朝一で出社すると、誰もいないフロアにはのっぺりした机とそれを囲むように段ボールが
山高く詰まれていました。
机の搬入は業者の方たちがやって下さったので、あとは自分たちで中身を収納するだけです。

静かなうちにサッと終わらしてつらつらメールをチェックしていましたが、30分ほどすると空気が違う
のを感じて、ふと顔をあげてみると・・・
先ほどまでとは一変して、まるで野戦場のような光景が広がっていました。
80もの人たちが一斉に段ボールを開けて、言葉を発することなく黙々と作業に集中。
ドタバタとみんな凄い気合いなのですが、全体としては声一つ立たずに静かなのです。
まるで禅寺の作務のようです。
チャイムが鳴ってからも誰一人まわりに注意を向けることなく、自分のことだけに没頭していたため、
定例ミーティングなどの日常業務が完全に吹っ飛ばされてしまいました(笑)

実際は、段ボールの一つでも出せば仕事は始められたはずですが、一気に片づけようという熱気が
フロア全体に溢れていました。
仕事を早くスタートさせるために気合いが入っていたというわけではなく、違うスイッチが入った感じ
だったわけです。
一心不乱。何かに取りつかれたかのような目でした。

その時、ふと頭の中に復興の映像が浮かびました。

空襲で焼け野原になったあとに一斉にバラック小屋が建つ様子や、自然災害で被災した土地に家が
立つ様子です。

昨日まで当たり前に過ごしていた景色が、一瞬にして何もないサラ地になった時、人間は理屈抜きに
元に戻そうというエネルギーが湧いてくるのでしょう。
それは身体に染みついた肌感覚というものが、心とリンクしているからに他なりません。

仕事で広島に出張することがよくありますが、いつも思うのが、戦争で荒野になってしまった場所が、
よくぞ西日本随一の大都市に復興したということです。
もちろん生まれた時から慣れ親しんだ場所ですから、そこで再建する人たちは多いでしょうが、あれ
ほど酷い光景を目の当たりにしたならば、かなりの人数が近くの町へ集団移住して、第二の広島の
ような発展の仕方をしてたとしても不思議はないところです。
それなのに、何もなくなってしまった場所が、他の町を上まわるような大都市になったのですから本当
に驚きです。

そのような状況に置かれた時、人は理屈を越えて全く違う本能が湧き出てくるということでしょう。

愕然とすると同時に、凄まじいエネルギーが溢れ出るわけです。
悲しみという自我の中に埋没してしまうのではなく、強靭なバネのように、グッと落ち込んだ瞬間、
バウンドの反動力で物凄いエネルギーが噴き出すのです。
それは、自我という小さな枠を吹っ飛ばして、生き物としての生命力が輝き溢れた瞬間とも言えます。
どこかに移り住んで立て直そうなどという小ざかしい理屈は吹き飛んでいるのです。
根源から溢れ出る生命エネルギーの爆発に、我を忘れて、同化しているわけです。
それが一人、二人でなく、町単位で起きているのですから、そのエネルギーは半端なものではない
でしょう。
戦災や被災の悲しみに満ちた土地の氣も、その爆発的なエネルギーが一新して、活気に溢れたまま
その後の大いなる発展に繋がったのだと思います。

ですから、今さらではありますが、東日本震災の後の復興計画は残念でなりません。
部外者が理屈であれこれ時間をかけて先延ばしになっているうちに、このエネルギーが消えてしまい
ました。
海の近くが危ないというならば、高台でもどこでも新しい場所を早くに決めれば良かったのです。
費用がどうだとか、安全性がどうだとか、細かいところまで詰めていたらキリがありません。
国民の生活が最優先で、お金はあとから考えるものです。
必要なものは、かならず回ります。
出したものは景気として返ってきます。
それよりなにより、時間こそが勝負です。
官僚や企業ならば責任を考えてキッチリ詰めようとするのは仕方ありませんが、そうした理屈を越えた
決断を下すのが政治です。
それこそが、政治家の存在意義です。
理屈のみでやるならば、この世は民間人だけで事足ります。
いちいち点数を気にしていたら、政治などやってられません。
世の中には、陰と陽があるのです。
純白を探そうとするのは、夢想家のすることです。
政治家は、毒を飲み込むのが仕事です。
批判されるのが仕事の一部なのです。

結局、1年2年と待たされた人たちは、熱が冷めて新しい環境に順応してしまいました。
当然のことです。
先祖代々の土地、長く住んでいた場所、そういうものをその人の身になって政治家たちが考えてくれて
いれば、もっと違うことが頭に浮かんだかもしれません。
遠く離れた机の上で100点の模範解答を考えているうちに、風は去ってしまいました。

残念ですが、人間の可能性というもの、生命の力強さというものを信じ切れなかったのでしょう。
というよりも、そこへ目を向けることすらなかったのかもしれません。

とはいえ、他人のマイナス部分だけをあげつらっていても何も生まれません。
昔の政治家は、国民のために正しい道だと信じていれば、何を言われようと泥をかぶって己の信念を
貫き通しました。
これは公人としてまったく正しい姿です。
しかし今の世は、ほんの少しのことでマスコミが騒ぎたて、そして何よりそのことで私たち国民が大騒ぎ
して事を荒立てて、政治家を潰してしまっています。
そんなものは勧善懲悪でもなんでもありません。
単なる子供のイジメです。
その結果が、東日本震災での政治対応となりました。
決して左巻きの政党だけの責任ではありません。

いつでも自分の目で、自分の心で、真っさらな景色を映し観るのが大切なことです。
他人の声に惑わされてはいけません。
それは、地球を助けようとか、自然を守ろうとか叫びならがら何かをやることよりも、遥かにそれらを
実践、実行、実現していることになります。

私たちは、囚われや我執を放せば、それだけでもの凄いエネルギーに溢れるのです。

自分の中心に柱を立てること、わずかな汚れにいちいち騒がず有りのままに大局を見ること、そして
そこに映るものを我が身にただそのまま流すだけ、それがあらゆることの第一歩になります。
それこそが、地球を輝かせようとか、子供たちを守ろうということへ繋がっていくのです。


ゴールデンウィーク明けの初日、大勢の人たちが誰一人ムダ口をたたくことなく、無心で段ボールを
整理していました。
1時間もすると段ボールの山はすっかり片付き、いつもの景色が戻っていました。
みんな、やっと元の世界に戻ってきたというように、ホッと息をついていました。

つい先ほどまで、目の前のことだけに一心不乱に集中してた時、この部屋は自我を離れたエネルギー
に溢れていました。
一息ついたその笑顔は、ホッと安堵の表情というだけでなく、知らずのうちに天地と一体となっていた
充実感の現われだったのかもしれません。

天地の心は、そこかしこにあります。
そしてその瞬間というのは、案外、自分自身では気がつかないものなのかもしれません。
眠い目をこすりながらアクビをしてた私も、その一人だったのでしょう。

人生というのは、瞬間瞬間で、誰もが天地と一体となっているということです。

生きることは、眉間にシワ寄せて考えるものではなく、もっとラクで、もっと自由でイイんです。



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