これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

手放したほうがお得です

2015-02-12 18:48:33 | 心をラクに
私たちは、いろいろ考える脳ミソを持っています。
何となく、この頭が、魂の純粋性を濁らせているのではないかと、あらぬ疑いをかけてしまい
ます。

頭であれこれ考えることが囚われを生むように思いがちですが、考えるという行ない自体は
何一つ悪いものではありません。

ただ、潮時になってもまだ「考える」という作業を続けてしまって、そこにしがみ付いて離れ
なかったり、辿り着いた答えにいつまでも縛られてしまったりすることが、問題なのです。
考えること自体は、人が人であるための、無くてはならない行ないです。

考えに考え抜いて、一度自分の身体を通し、そこで何かが分かっても分からなくても、実際の
作業に入る時には、すべて天に放ることです。

これは仕事のコツでありますし、武道のコツでもあります。

間違えないようにと何度も頭で繰り返したり、あるいは、答えの出なかったことに不安を感じて
いつまでもダラダラと考えたりするのは、絶対にいい結果を生みません。
それは執着を重ねていることであり、また「今」に集中しきれていない状態だからです。

しかしながら、寸前のギリギリまで頭がパンクするほどに悩んだり考えたりすることは、絶対に
必要なことです。

それはその瞬間の目の前にあること、つまり「考える」という作業に100%集中していることに
なるからです。
そのときの「今」に、全身全霊をかけて一所懸命にやっている状態です。

そして実際に作業に入る時には、もうそれに引っ張られず、キレイさっぱり頭を切り替える。
すでに目の前の「今」は、アレコレ考えるという場面ではないからです。

そうすると、大抵どうにかなります。
訳も分からずやっていたらそれが答えだった、ということにもなります。

くれぐれも、考えることを放棄してはいけません。
「すべてが必然だ」「プラスだからいいんだ」というのは思考放棄です。
また、天地宇宙のお蔭さまに包まれているから幸せだーと、ホンワカしすぎてまわりが見えなく
なって、何でもかんでも入るにまかせるというのもいけません。
全てを受け入れるとは、しっかりと自分に通すことです。
目を閉じて口をポカンと開けたままフラフラ歩くことではありません。

考える必要があることは、精一杯に考え、精一杯に悩み、そして次の瞬間にはそれをパッと
後腐れなく完全に手放す。
それが「今」に生きるということ。一所懸命ということです。
ただし、考えたり悩んだりする必要の無いことは別です。
最初から手をつけないことです。

そして、悩んだり考えたりして「これだ!」というものが出てきたとしても、一度それを理解
したら、それにしがみ付かないことです。
一度通せば十分。
心配しなくても、決して無くならないので大丈夫です。
身体の細胞が覚えています。
そして、空間にも刻まれています。
掴んで離すまいとしないことです。
忘れてしまったらそれだけのものだった、という達観が大切です。人生の達人です。
ギュッと強く握るよりも、大きく開いた方が、天地のエネルギーが入ってきます。

人はナルホドと腑に落ちると、知らないうちにそれ一本やりになりがちです。
このブログでも、世界は輝いているなどと、あんまりキラキラしたことばかり書いていると、
フワフワ浮き足立ってる感じがしてきますので、ちょっとリセットする必要があります。

天地宇宙の実相がどうであろうと、それはそれです。
私たちは、やはり、現実のなかに生きています。
「今」の現実にしか、本当の輝きはありません。
世界の姿や、ゆきし先を知っておくことは大事ですが、一度通したらば、あとはスパーンと
手放すことが、今に集中するためのコツです。


ヘソ曲がり(?)で有名な宮崎駿監督にも、こんなエピソードがあります。

トトロが大好きなお子さんがいて、DVDを流すとサッとテレビの前に座るそうで、
「一日に何度も観ています」と、お母さんから熱烈なファンレターが届いたそうです。
宮崎監督は見るからに不機嫌になり、「まったく嬉しくない」と怒り出したといいます。
「そんなことしてる暇あったら外で遊べ」「トトロなんて二度と観るな」と。

やり場のない怒りが、ヒシヒシと伝わってきます。

 『トトロ』は、あくまで自然の輝きに触れた時の「感激の様子」を描いただけで、
 自然の輝きそのものを描いたわけでない。
 自然の輝きは、本当の自然の中にしかない。
 アニメは、間接的に、その素晴らしさを伝えるものでしかない。
 本当の感激は、直接、自然に触れて感じるものだ。
 都会ではそれを知る機会が無くなってしまったから、その魅力を間接的に伝えて
 背中をあと押ししようとしたのに、よりによって、その仮想世界に身を投じて
 疑似体験に満足してしまうとは。
 だったら、そんなDVDなんて捨ててしまえ!

 
私の勝手な解釈ですが、そういうことなんだと思います。
(違ったらゴメンナサイ!)

ですから、天地宇宙の輝きにしても、キラキラの幸福感にしても、一度その感覚を描いたら、
もうそれには囚われずスッキリ忘れて、今の現実、足元の一歩に集中ということです。

綺麗な言葉というものは酔いやすく囚われやすいので、ことさら注意が必要です。
前のめりになりすぎず、たまの清涼剤くらいの気楽な気持ちがちょうどいいのでしょう。
心は、軽ければ軽いほど、いいわけです。

宮崎監督もそうですが、解剖学者の養老孟司先生も、へそ曲がりで知られています(笑)
ニヒリズムを象徴するようなお二人ですが、実は二人とも現実世界というものを100%
称賛しています。
手放しで受け入れています。
二人がボロかすに言っているのは、現実世界そのものではなく、人間の思いや考え、そして
それを具現化させた脳世界・人工世界です。

この二人に共通するのは、休日に自然の中に身を投じることです。
お二人とも、超がつくほど、虫捕りが大好きです。
ガチガチの人工世界に息が詰まってのこともあるのかもしれませんが、それ以前に、単に
好きだからなんでしょう。

”虫を捕ることにどういう意味があるのか?”
日ごろから深いテーマを掘り下げている方たちですから、そのような質問をいつも受ける
そうです。
でも、「意味なんてないよ」と笑っておしまいです。

そもそも、何かをすることに、意味など必要ありません。
何かをしているという、それ自体がすでに100点満点であって、足し引きもありません。
そこに意味を持たせようとするのは、人間の後付けでしかありません。
「今」を刻むことで、すでに目的を達成してるのです。
「意味があればこそ今を刻む」ということではないのです。
やりたいことをやればいいんです。

ですから、虫捕りと同じように「生きる意味とは?」という問いかけも、ナンセンスという
ことになります。
生きていること自体が、すでに全ての意味を満たしているからです。
何らかの意味を持たせないと価値が無いと考えるのは、人間の勝手な思考遊びです。
意味なんて最初から無いのです。
だから、それを探そうとしても、いつまでたっても答えなんて見つかるはずがないわけです。

意味というのは、あとから人間が色づけるものです。
ですから、それを絶対視することは危険です。
あくまで主体は、行動の方であり、現実の方です。

言葉にせよ、意味付けにせよ、私たちはそれに引っ張られやすいところがあります。
とりわけ真面目な人ほど、我が身を律することが習慣付いているため、言葉や意味という
ものに、囚われやすくなっているかもしれません。
自分の中心に、言葉や意味を置くことで自らの重心を取ってきた人は、それらを捨てても、
また新たな言葉や意味をそこに置き換えて、安定感を得ようとする危険があります。

囚われを無くすために、気づけば、また別の囚われに頼ってしまうわけです。

「こういうものは止めよう」「ラクになろう」というものも、それにしがみついてしまうと
囚われになります。
それらも最初に一度通したらば、あとはいつまでも引きずらず、手放すものです。

ただ、今まで長いこと重しを置いて安定させることに慣れていて、いきなり空っぽにしたら
グラグラと不安でしょうがないという時は、無理をすることはありません。
その仕組みさえ自分で理解していれば、焦る必要はありません。
まずは新しい言葉に置き換えて、少しずつ軽いものに慣らしていくのがいいと思います。
「世界は輝いている」でも「おかげさまに包まれている」でも何でも。
そして徐々に慣れてきたら、そういうものも降ろしていく。
要は、途中でやめない、そこで満足しないということです。

心は、軽ければ軽いほどいいのです。

実際のところ、自分では「まさか」と思うものが、囚われだったするものです。
ですから、自分で大切に思っているものほど、もう一度落ち着いて見直してみるといいかも
しれません。

実は、自分を安心させてくれているものほど、思い切って手放したほうが、ビックリするほど
ラクになるものなのです。


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世界はそもそも輝いています

2015-02-10 22:36:04 | 心をラクに
世の中には、自己啓発や精神世界、仏教や神道など、心を扱った本がたくさん出ています。
このような本を読むと、心が晴れやかになったり、明るく穏やかになるものです。

それなのに、いざ、仕事や生活に戻り、顔見知りの人たちとやりとりをしていますと、いつもの
感覚が自分を現実に戻してしまい、夢心地はどこかへと消し飛んでいきます。
「本に書いてあったようにやってみよう。よし、自分は変われる。みんなに感謝だ。」とやって
みても、1ミリも変わることのない冷めきった現実に、ガックリと落ち込みます。

それでも、まだ「これでは足りない。時間差だ。もっと頑張ろう!」となるかもしれませんし、
「この現実がおかしい。もっと素晴らしい現実があるはずだ!」と、新しい努力を始めたり
するかもしれません。
そのうち現実に疲れてきますと、何か新しいネタ本を見つけてホッと息をついたり、あるいは
お手軽なハウツー本で束の間の夢を思い描いたりするかもしれません。
そのようなこともなく、「現実は現実、夢は夢」と割り切って、ファンタジーでも読むように
一時の夢物語に興じるだけの冷めた気持ちでいたとしても、現実に戻ると、あまりの泥臭さに
思わず溜め息をついていたりします。

なぜ、そうなってしまうのでしょうか?

私たちは、美しく華麗な世界に憧れを抱きます。
世界はまばゆい光に輝いて、まわりの人たちも光り輝くはずだと、心を躍らせます。
しかしその透き通った思いに比べると、目の前の現実はいつもの姿で、無機質に立ちはだかり
1ミリも変わりそうに見えません。
重い現実を突きつけられる瞬間です。
本に描かれている世界と目の前の現実は、あまりにも掛け離れすぎてて、その隙間を埋められる
とは、とうてい思えない。
そして、しばし途方に暮れてしまうわけです。

しかし、夢追う衝動はそんなことでは無くなりません。
「世界を輝かせたい」、「人々をクリアにしたい」、と。
そして何とか手は無いかと、様々な努力を続けます。
あるいは、今いる場所にうんざりして、自分の居るべき本当の世界を探そうとします。
諦めたらおしまい、必ずそれはできる、ギブアップなんかしない、と。

でも、ここで少し、一息いれて考えてみてください。

これまで触れてきましたように、天地宇宙というのは、お蔭さまのエネルギーに満ちています。
本当に、満ち満ちています。

比喩で言っているのではありません。
詰まり詰まっているのです。

私たちは、だからこそ、生きていられるのです。
そのエネルギーで動き、そのエネルギーでこうして考えているのです。
私たち自身が、そのエネルギーなのです。
それを己の我執で濁らせていることで、自分が、自分のものであるように錯覚しているだけ
なのです。
我執が薄まれば、自分も天地も、何も分け隔てない同じ一つになるのです。

天地宇宙は、エネルギーに溢れています。
天地は、「透明なちから」そのものです。
この世界は、エネルギーそのものなのです。

つまり、世界はそもそも、光り輝いているのです。
それが見えないのは、ただ単に、自分が濁っているからです。

「汚れてしまった世界を輝かそう」なんていうのはお門違いです。
「みんなを輝かそう」なんて、余計なお世話なわけです。
やることはただ一つ。自分の我執を払うだけのことです。

世界はそのままで初めから輝いていますし、人々もそのままで初めから輝いています。

お釈迦さまも亡くなられる最期に「この世は、美しい」と仰ってます。
天地宇宙の心とは、すべてを受け入れる心です。寛容さです。
まわりの世界もまわりの人々も、そして自分自身をも、そのまま無条件で受け入れる心こそが、
それらの輝きを映し見せてくれるのです。

輝いているから受け入れる、ではないのです。
受け入れるから、輝きが見えるようになるのです。


そしてこのような感覚は、私たち日本人の中に、昔からあるものです。

神道には、祓いというものがあります。
これは悪いものを何処かへ排除したり消滅させたりするものではなく、悪いものも含めて丸ごと
素の状態に還る・変換させる、という考え方です。

つまり、それをそのままに受け入れて、見た目は同じでも、意味が変わるということです。
災いをもたらすものをカミとして祀ってしまうのも、そういう考え方がベースにあるからです。

「最初から悪いものなどない」「だから穢れを祓えば良いものになる」という考え方は、
性善説とも呼ばれます。
あまりに聞き慣れた言葉なのでサラッと流してしまいがちですが、性善説というのはつまりは、
全てがもともと光り輝いている、ということを言っています。
そして、それを翳(かげ)らせているのは、それ自身のせいだけではなく、それを観る私たちの
側にも原因があるということです。
それを観る私たち自身の穢れを祓うことが、それ自体の穢れ・翳り(蔭り)を祓うことにも
なるのです。


私たちのまわりは、もとから、すべて光り輝いています。

だからといって、今すぐ、それをダイレクトに感じる必要はないと思います。
「お手軽に近道してラクにすぐに」というのは、一番の遠回りになります。
今はただ、そういうものなんだと素直に受け入れて、我執に囚われず集中することです。
フラフラと、夢見に出歩いている場合ではありません。
世界の輝きを観たいというのなら、なおさらです。

天地宇宙のお蔭さまに感謝して、自分のことに100%集中する。
それは、自ずと今に生きることに繋がります。

この「今に集中」というのは、一歩一歩の足元だけに集中してストイックにやるということ
では決してありません。
景色を見ながら歩いていく、ピクニックのような軽やかな感覚のものです。

景色を感じているその一歩が、まわりと1つになっている状態です。
瞬間の「今」、一枚の「今」を感じ切る、浸かりきる、味わいきる、という感じです。
風呂の湯に溶けていくように心を開いて、余計なことを考えない。

山々を眺める草むらに腰掛け、春の優しい風が吹き抜けた瞬間、全身の毛穴でその景色と
空気を感じるでしょう。
その世界と、その瞬間と、すべてと自分が同化している感覚。
アレです。

そういえば、子どもの頃のキラキラもそんな感じでしたね。
世界が輝いていることを、私たちはみんな知っているのです。

まわりを全て感じる。
その瞬間のなかに、自分も一枚絵になっている。
それが一歩一歩の意味であり、集中の意味です。
自分を包む「今」以外のことに、心を移ろわせないということです。

まわりを見ずに、一心不乱に歩いているのではありません。
進む先に広がる山も見えています。ただ、それに執着はしない。
一歩ごとに、近くも遠くも、「今」を全身に感じているだけです。

それは、私たちのご先祖さまたちが、自然にアタリマエにやってきたことです。
汗をかきながら黙々と稲を植え、一服しながら笑顔をこぼし、そしていつまでも続くそんな毎日を
何も疑うことなく、一喜一憂しながら素直に生きていました。


さぁ、私たちも。

天地宇宙やご先祖さまたちに感謝し、沢山のお陰さまに包まれながら、今の景色を全身で
感じてみませんか?

もはや世界がどうのでなく、それこそが、キラキラと光り輝く姿になっているのではないでしょうか。



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今の私を受け入れましょう

2015-02-08 18:28:39 | 心をラクに
ようやく風邪はおさまりましたが、体力がすっかり落ちてしまいました。

風邪をひいてる最中には、心が弱気になってもソレでヨシと諦めきっていたのでしたが、
調子が戻って頭がスッキリしてくると、今度は体力が落ちていることにガックリしている
のですから、我ながら忙しいもんであります(笑)

体調を崩せば体力が落ちて当たり前なわけですが、それだけ「普通の状態」というものが、
強烈に、自分の肌に刷り込まれているということなのかもしれません。

今までは、動けてアタリマエ。
それが、少し動いただけで息が切れたり、足が踏ん張れなくなったり。
気にもとめず流していたアタリマエが、目の前から無くなった瞬間、エッ!?となるわけです。
そして、自信をなくしてガックリ、と。

以前も書きましたが、自信というのは「今の自分を信じられている状態」つまり「今の自分を
受け入れている状態」「まかせきっている状態」です。
ですから「普通の状態」「アタリマエの状態」を失ったことに戸惑ってしまうと、現実を受け入れ
られていない状態となり、自信をなくしてしまうということです。

実際に身体を動かしている場面、運動をしている真っ最中であれば、なおさらこの落差は
受け入れがたく、それだけ強い我執も起こりやすくなります。
とりわけ、二人一組で稽古をしている時などは、相手に迷惑かけたくないという思いで、
無理やりにでも身体を動かそうとしてしまいます。
あれ?おかしい?と思った瞬間、何とか「普段の」動きに近づけようと、頭(意識)でもって
ギアを上げてしまいます。
身体の自然な動きを無視して、心で鞭を打っているというのは、完全に、我(が)に染まって
いる状態です。
動かない身体を動かそうとするのは、「動かねば」という我欲200%なわけです。
そして、その不自然な心の状態が、相手を投げられないという形となって現われてくるのです。

まさに「透明なちから」とは、180°反対の状態といえます。

その場を取り繕えさえすれば、たとえ付け焼刃だったとしても、根性や気合いだと言って美談で
片づけられるかもしれません。
しかし、実際に身体を使っている場面では、結果がともなわないため、美談として誤魔化すことが
できないわけです。


以上は、目に見える体の話でしたので分かりやすかったと思いますが、これが日常的なシーンや
心の話だったらどうでしょうか。

身体や心が鉛のように重く、まるで水の中でもがいているようにモドかしい。
それでも何とかしようと、根性や気合いで頑張ってしまう。

これと同じことを、日ごろ、自分が弱っている場面でもしていないか、ということです。

言葉は悪いですが、そうなると結果的に、我執を刻んでしまっていることもあるわけです。
もちろん、止むにやまれず、無理しないといけない場面というのはあります。
特に仕事などでは、自分が弱っているからできませんでは済まないものです。
たとえ、我執だろう何だろうと、自分にムチ打たないといけないことがあります。
ですから、それはそれでいいのです。
ただ、同じやるにしても、その中身を理解しておくということが大切になってきます。
知らずにやるのと、知っててやるのとでは、大きく違います。

何も考えずにいますと、我が身にムチ打つ「根性」や「気合い」というものは美談に思えて
しまうものです。
特に、運動をやってきた人間などは、環境的にもその傾向が強いかもしれません。
でもそれは、どうしても必要な時にやむを得ず使うものであるということを、冷静に理解して
おくことが大事です。

伝家の宝刀だと分かっていれば、それに囚われてしまうことはありません。
使ったところで、そこからサラリと離れられます。
しかし、それが習慣化してしまうと、無意識のうちにいつも使うようになってしまい、我執を
重ねることになってしまいます。

ですから、必要な場面以外では、なるべくそういうものは使わないほうがいいのです。

ただ、私たちは、その必要な場面というものも勘違いしやすいものです。
とりわけ、弱っている時やスランプの時など、私たちは無理をしようとしてしまいます。

それは、成果や結果、あるいは周囲の目を気にしているということもあるかもしれませんが、
それ以上に大きいのが「普段の自分こそが本当の自分だ」と思い込んでいる囚われにあると
思います。

確かに、365日のうちの大半は、似たような状態にあるかもしれません。
だからといって、そうでない状態の自分が、異質な自分ということにはなりません。

いつもと違った自分、いつもよりも劣った自分、受け入れたくない自分・・・
そのような認識を抱くことで「いつもと同じ状態に戻そう」とする我欲が現われてきます。
そして、それがうまくいかないと自信を失い、弱気になったり落ち込んだりするわけです。

でも、1日1日すべての自分が同じであるはずがないことくらい、冷静に考えれば分かるものです。
単に、普段の状態であれば、それが誤差の範囲におさまってしまうため、その差を実感できない
だけのことです。

一年前の自分と、今の自分は違うもの。
きのうの自分と、今の自分は違うもの。
さっきの自分と、今の自分は違うもの。

その日その瞬間の自分は、すべて違います。
だから、それぞれを比較する必要はありません。
すべてが違ってアタリマエだからです。


うまく出来ない自分があってもいいのです。
いつもと同じ結果を目指す必要はありません。

まわりから言われるまでもなく、自分のことは自分が一番よく分かっています。
まわりがガッカリしたって、それはそれ。
みっともないなんて思わない。
ガッカリさせとけばいいんです。
それで、自分までガッカリする必要はありません。
しゃーないんですから。
HP(ヒットポイント)が少ないんだから、無茶いうなってことです。

釈明なんてしなくてもいいのです。
涼しい顔で、ニコニコしていましょう。
自分だけは、今の自分をそのまま受け入れてあげましょうよ。

「いつも」の自分なんてものは、ありません。
今は、「今」の自分だけを見ていればいいのです。
調子が悪ければ、それが「今」の私なのです。
飾ることない、素の「今」の私なのです。

負荷をかけて120%にしようとする必要はありません。
それは「今」の私を拒絶、否定することにしかなりません。

「あれ?おかしい?ダメだな?」なんてのは余計なことです。
それは「今」ではない何処かを見てます。
どこかと比較してるだけです。

今は今のままで、そのまま全てを受け入れる。

「カッカッカツ、調子悪りぃ~!」と(笑)

それが「今」に100%の生き方です。
それが自分を信じることです。

今の自分にフォーカスしていれば、すべてが自然のリズム、自然のペースになります。
身体にあった心のペースになりますし、心のペースにあった身体の動きになります。

天地とおなじ、自然の呼吸、自然の生き方になります。

たとえ肉体が弱っていても、心はとてもラクになります。
そして、それにあわせて、肉体もラクになっていくものなのです。


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透明なちから

2015-02-06 20:56:18 | 武道のはなし
以前に書いた『お手軽な呪文』の中で、「心はものすごいエネルギー」という表現をしました。

そのエネルギーの正体とは、心そのものではなく、まさしく根源から湧き出る生命エネルギーであると言うことができます。

それというのは、私たちのまわり、この天地宇宙に充満しているものであり、氣とかご神気とか呼ばれるものと同じものであるわけです。

ですから、雑念が消えることで私たちも天地宇宙の物凄いエネルギーへ純化していく、というような話になってまいります。

さて今日のタイトルですが、これは『透明な力』(木村達雄著、講談社刊)からお借りしたものです。

この本には、大東流合気武術の佐川幸義先生のことが記されていまして、そのなかには「触れた瞬間に動けなくなってしまう」とか「大勢で
かかっても一瞬で吹っ飛ばされてしまう」という話が残されています。
超能力というと安っぽくなってしまいますが、要するに、物理の原理原則を超越した見えない何かが働いているということであります。

技は今も伝承されているそうですが、その仕組みについてははっきりとは解明できてないようです。
こういうものは感覚の問題なので、理詰めで解くことはなかなか難しいのではないかと思います。

ただ、ご本人の言葉の中に数多くのヒントが隠されています。

佐川先生は日課として、ひたすら重い棒を振ったり、四股を踏んだり、様々な基本稽古をなんと千回単位でもって繰り返していたそうです。
また、身体だけでなく頭のほうでも、夜も寝ずに四六時中とことん合気のことだけを考え抜いていたと言います。

まさに、合気という一つのことに己の全存在をかけておられたわけです。
そのことをご本人は「執念」という表現をされていますが、そこに囚われというものは一切感じられませんので、これは「極限までの集中」
という意味になるかと思います。

筋肉やスピードという物理的な鍛錬成果ではなく、「今」への極限の集中と我執の透明化により、見えない何かに繋がった。
ですから、根性論だけで同じ形を何千回やったところで、決してその境地には達しないということになります。

やり方を誤ると執着を鍛えることにしかならず、むしろ逆方向の努力になってしまう恐れがあります。
これは私たちの日常においても、起こしやすい間違いと言えるかもしれません。

目的が何であれ、少しでも欲得が混じってしまうと、頑張れば頑張るほど囚われが強化されてしまうということです。

逆に、何千回もの厳しい反復というのは、頑張りを越えて無心に至らないと達成できないような異常な回数を課すことによって、心に囚われず
ひたすら「今」だけに集中することを目指したものであったのではないかと思います。

そうやって我執を無くしていくことで、天地との壁がなくなり、天地そのものとなって、天地のエネルギーと一つになっていった。

佐川先生自身、技そのものよりも、そうした凄まじいルーチンこそが絶対に必要だと仰られ、老齢になられてからも、それを
怠らなかったと言います。

凡人としてはそこまでやりこめば少しくらい数を減らしても大丈夫そうなものと考えてしまいますが、心というものはそれほどまでに移ろい
やすいものなのでしょう。
だからこそ物理的鍛錬としてではなく、身体感覚を刷り込むための作業として、感覚優位の状態を
維持しようとされたわけです。

それは、頭では心を抑えることはできないが、感覚を追えば囚われが薄まることを示しています。

それは私たちも経験していることです。

温泉にじんわりと浸かった時や、ポカポカした春の陽射しにあたった時、あるいは森林の空気や滝のマイナスイオンに触れた時、瞬間的に全ての
囚われが消えて無くなります。

感覚を追えば執着が薄まるということは、執着が薄まれば感覚が広がるということでもあります。

つまりは「透明なこころ」こそが「透明なちから」の正体だといえるわけです。

武道に限らず、一つの道に身を投じた求道者、武骨な職人、あるいは真面目に生きてきた普通の会社員や主婦であっても、「透明なこころ」を
体現している人であれば、同じように「透明なちから」を発しているに違いありません。

先日も書きましたが、包容力のある人物や、高僧と言われるような方たちと同席しますと、それだけでホンワカした心地になります。
それを「徳がある」と表現することもあります。
この温かくて気持ちの良い雰囲気、空気感というものこそ「透明なちから」と言えるわけです。

佐川先生は武道家だったので、それが人を投げ飛ばすという、誰の目にも見える形になりましたが、それと同じ空気感を他の分野の方たちも
発しているのではないかと思います。

そしてこの「透明なちから」こそが、天地のエネルギーでありご神気であり生命を生かしてくれるものであり、表現を変えれば、寛容さであり
愛というものなのではないかと思います。

佐川先生以外にも武道の世界でこの天地の力を体現された方として、同じく合氣道の藤平光一先生がいらっしゃいます。
藤平先生は、若いころに不治の病といわれた肋膜炎にかかり、必死の修行を経てそれを治されたそうです。
また、その師である中村天風先生も当時不治の病だった肺結核にかかって、命がけの修行でそれを治しています。

いずれの場合も、命に関わる大病によって我欲や我執に向き合い、天地の理に氣づき、道を極める
に至りました。

佐川先生は、透明なちからのことを「合気」と表現し、自分の生きているうちにそれを弟子たちが掴まないと、絶対に分からないと断言されて
いました。
理屈を教わって分かるものではない、言葉で説明されて分かるものでもないとして、「やられた感じをもとに自分のものとしていくべきもの」
と仰いました。

まさにそれと同じことが職人の世界にも見られます。

口で教えたりせず、道具を触らせることもさせず、師匠を黙って近くで見ているだけということを何年も続けさせるというものです。

場合によってそれは、職場だけでなく24時間、寝食までも共にさせたりします。
つまりは師匠から溢れる見えないもの、雰囲気、すなわち「透明なちから」を感覚で掴む、写し取る、それに染まるということなのだと思います。

初めから理詰めで入ってしまうと、一生その感覚を体得することはできません。

なぜ師匠のようにできないのか?何が違うのか?などと頭で考えれば考えるほど囚われが強まってしまい、毛穴が閉じて、感覚をキャッチする
ことができなくなります。
昔の人はそれが分かっていたから、理屈ではなく感覚の方から伝えようとしたのでしょう。
テクニックなどは、あとからいくらでも教えられるものであるということです。

もし最初から技に走ってしまうと、確かにある程度までは急速に伸びるでしょうが、そこから先はどうにも進めなくなります。
見た目だけに走る限界です。

そして一度そうなってしまうと、余計な知識や観念が邪魔してしまい、感覚からの吸収が困難になってしまうというわけです。

現代社会はまさにこのパターンに陥っているといえます。
できるだけ時間も労力も削り、結果だけを求め、理屈やテクニックに走る姿をいたるところで見かけます。

それを効率的と呼ぶのは簡単ですが、それではいったい何のための結果か?ということです。

刻むべき日々は使い捨てにされ、あとに残るはスカスカの張りぼてだけ。
出来た瞬間に用無しになってしまい、また次の張りぼてを作らなくてはいけない。
明らかに行く先が窮してしまっています。
自分が何をしているかなど関係ない、まさにまわりが見えていない状態と言えます。

理屈に走るというのは、目の前の「今」から離れてしまっている状態です。

その証拠に、考え事をしている時は自分のまわりが何も見えなくなります。
つまり、存在していない状態となります。
心も意識も感覚も「今」に全く向いていない状態になるわけです。

逆に囚われがなくなっている時は、まわりの全てを感じています。
「今」に生きるとはそういうことだと思います。

フットワークが軽い器用さよりも、融通のきかない武骨さの方が、天地においては健全な姿であるわけです。

佐川先生のように一日何千回も鍛錬を積むことは出来ないかもしれませんが、日常の生活一つ一つに心を向けるくらいならば、私たちにもできる
ことです。
それは言い変えれば、その一つ一つがすべて、囚われを無くす稽古になっていくということでもあります。

「天地と一体となる」と言うとハードルが高すぎて気負ってしまうところですが、「徳のある雰囲気」「ほっこりとした空気感」と言い換えれば、
なんとも身近に感じて、俄然、魅力が増してきます。

そして日常生活の一つ一つというのは、食事や掃除、洗濯、ドライヤーやヒゲ剃り、そうした他愛もないことを指します。

そうした一つ一つのことを、その時だけは集中してやる。
他のことは一切考えない。

なーんだ、たったそれだけ。
簡単なことじゃないかって思われるのでないでしょうか。

そう、たったそれだけなのです。
それだけのことで私たちも天地と一体となり、天地そのものになり、透明な力に包まれるのです。

その時その時、一つ一つのことに心を向ける。

そうしていくことで徳のあるホッコリした雰囲気が出来あがっていくわけです。



雰囲気は伝わります

2015-02-05 07:49:39 | 心をラクに
人と接していますと、雰囲気や空気感という、言葉では表現できないものを感じます。

苦労してきたのだろう、真面目なタイプだろう、明るい性格だろうと、醸し出される雰囲気から、
その人の生き方や性格が感じ取れるものです。

それは、天地の氣に、その人の色がついたものと言えるかもしれません。
もとは無色透明のものに、いろいろな色が混ざっているという感じです。

それを我執といって切り捨てるのは簡単ですが、見方を変えれば個性ということもできます。
あるいは、その人が長年刻んできた作品といえるかもしれません。
こういうのはダメだとか、こうでなければイカンと決めつける必要はありません。
天地の視点に立てば、カラフルな方が面白いに決まっています。

また程度の差こそあれ、相手の雰囲気から、人は何かしら自分の心の変化を感じるものです。

この人のそばにいると、なんだか暗い気持ちになるなぁ。
この人のそばにいると、なんだか息がつまりそうに苦しくなるなぁ。
この人のそばにいると、なんだかモリモリと元気になるなぁ。
この人のそばにいると、なんだか日なたぼっこしてるようにポカポカするなぁ。

そして、相手がそうであるように、自分もそういったカラーを発しています。
知らないうちに相手もこちらの影響を受けて、そういう気分になっているわけです。
雰囲気というものは、お互いに影響を与え合うものだと言えます。

そして、その雰囲気というものは、自分の心ひとつで簡単に変わるものです。

昨日と今日でも、体調や気分が変われば、ガラッと違った雰囲気になります。
また、年齢や経験を重ねることによっても、色合いが変わっていくものです。

たとえば、立場や生活環境、人づきあいが変わることで、自分の雰囲気が変わることがあります。
原因は、自分の心が変わったからに他なりませんが、そのキッカケは身のまわりの雑多なモノゴトが
変化したことにあります。
慣れ親しんだ環境であれば、身のまわりのモノゴトも想定内になっていますので、心も落ち着き、
余裕をもってスルーできます。
しかし、全く異なる環境に置かれると、そこには新たなモノゴトが転がっています。
今までとは違った価値観や常識が支配しているかもしれません。
すると、どうしても自分の周囲のことに囚われがちになり、振り回されてしまうわけです。

新しい環境に自分を順応させていくのは大事ですが、それは流されたり染まったりすること
ではありません。

本当の順応とは、自分を曲げることではなく、来るものを受け入れて流すことです。

そして、自分を捻じ曲げたり、まわりに流されたりしている場合は、必ず違和感を覚える
ものです。
「なんか前と違うな・・・」「こんなこと昔は言ってたっけ?」と。
心が「今」ではなく、まわりに向いてしまっている時は、そういった疑問が心の底から湧き
あがります。

心がどこにあるかで、自分の好むものにも好まないものにも、すぐに変わるということです。

自分の雰囲気に違和感を覚えた時は、自分がそこに心地よさを感じていない時です。
そういう時は、リセットです。
先のことや過去のことに囚われたりせず、また周囲の人やモノゴトを気にかけたりせず、
目の前の「今」に100%集中です。

そうやって自分に芯を通すことで、心地よく身を置ける雰囲気が自然と現われてきます。
芯を通すとは、自分の中心線を「今」に向けることです。

中心線が「今」を通ることです。
つまり、自分の中心とは「今」のことです。
「今」が自分の中心なのです。

日々の一つ一つに、なかなか集中できなくても、焦ることはありません。
わずか一瞬でも集中できれば、その瞬間はリセットされた真っさらな状態になります。
どんなことであっても、目の前の「今」に集中している時は、前後の囚われから解放されています。
風呂でも、飲みでも、運動でも、なんでもそうです。
とにかく、それだけに没頭している時は、他の囚われから離れている瞬間です。
そうした「今」が、一つずつ増えていけばいいのです。

「今」への純度が高まっていけば、自然と、自分の好み(カラー)は薄まり、本来の状態(天地の状態)
が現われてきます。
ただ、好みがあるうちは、それを排除しようとすればするほど執着は強まりますので、むしろ
とことん楽しみきるほうが、近道だと感じます。

何ごとも、一歩一歩だと思います。


ところで、神道では、自分が知らず知らずのうちにつけてしまったものを「穢れ」と呼びますが、
「禊」でもって、その目に見えない穢れを祓い落そうとする行為は、まさにリセットそのものと
言えます。
また、罪(つみ)の語源は「包む身(つつむ・み)」だとする説があるのも、非常に興味深い
話です。
私たちの祖先は、それほど雰囲気や空気に対して敏感だったといえます。

古来、日本人は、理屈よりも感覚に親しむ民族であります。
昔から、空気というものを感じる(読む)ようにして暮らしてきました。
それは、自分を取り巻く生活環境、天地に対してそうだったからこそ、人に対してもそうなった
といえます。

日本人は、決して、人間本位のわがままな理屈に流されるようなことはありませんでした。
「どうにもならないことは、どうにもならないものだ」と割り切って、「今」に生きてきました。

そのことは、幕末、日本に来た外国人の著書にも残されています。

彼らは、みな共通して、日本人の前向きさに驚きました。
非常に貧しく、生活は大変苦しいのに、みんなニコニコ笑顔だったからです。
それは、もしかしたら心の底からの笑顔ではなかったかもしれません。
ただ少なくとも、心の持ちようは、笑顔であろうとしていたわけです。
我が家が火事で丸焼けになった時も、うちひしがれることなく翌朝には黙々と焼け残った食器を
拾い集め、時には笑顔を見せるほどに逞しかったといいます。

外国では、そんなことは考えられませんでした。
生活が困窮していれば、疲れた顔でうつむいているのが普通でしたし、家が焼けたら、絶望して
泣きわめき天を呪うことすらあったわけです。
それは、理屈に生きるがゆえの、理不尽さへの不寛容といえるかもしれません。

外国人たちは、その国民性の違いに直面し、非常に混乱したようです。
そこで日本人が落ち込んでいてくれていれば安心できた、と言っています。
彼らは、結局、最後までこの日本の国民性については理解できないままでした。
しかし、それでも彼らは、それに惹かれる自分を抑えきれなかったと書いています。
どう考えても理屈にあわない、おかしい、認めたくない、しかし彼らの笑顔はまるで天使のようだ、と。

ここに全てが現われていると思います。

今でも私たちは、静かに微笑んでいる人のそばにいると、自分もホッとした気持ちになります。
それは、その人が何にも囚われず、天地の心に近いからだといえます。
力強いわけでもない、カリスマ性があるわけでもない、ただホッコリしているだけ。
お茶でもすすっているかのような空気感です。

赤ん坊や動物のように、我執がなく無垢な存在ほど、そういう空気には敏感です。
母が子に向ける心は、天地の心に近いからこそ、赤子も笑うわけです。
動物でも、あるいは植物であっても同じことです。

そして、大人の私たちでも、そういう雰囲気に触れるといつの間にかリラックスしていることに
気づきます。
それは、相手の色に染まったというよりも、こちらの色が抜けたといった方が近いかもしれません。
我執が抜けて、本来の状態に戻っていったということです。

江戸・明治の外国人たちも、文章ではいくら強がっていても、おそらくはいつの間にか微笑んでいる
自分が居たのだと思います。

なんとも誇らしい話ではないですか。

ご先祖様たちは、何一つ持っていたわけではありません。
高望みはせず、慎ましく、今に感謝して生きていただけです。

そして私たちは、その血を引き継いでいるのです。
東日本大震災での諸外国の反応は、まさにこの幕末のシーンの再現といえるのではないでしょうか。

そうです。
実はそれほど構えなくても、私たちには、ごく自然にできることなのです。
あとは、ただ、遺伝子におまかせするだけ。

あちこち心を飛ばさず、ご先祖様たちのように、素朴に「今」に生きてみませんか?

フト気づくと、まわりがみんな、ホッコリ笑顔になっているかもしれませんよ。