3.11後にはいろいろなものが変わってしまった。まさに戦後というか、この日を境に世の中が大きく変わった瞬間だった。そのあおりというか、当然ながらtwitterを巡る感覚も、同じように大きく変わってしまったように思える。
その3.11後であっても、さすがに3月が経とうとする今になってみると、随分と落ち着いてきているようには感じる。しかしながら、それも本当に軟着陸したものなのかどうか、本当に落ち着いたものなのかどうかは、なんとなく怪しげだ。
さらに複雑にしているのは、facebookとの関連もあるように思える。僕個人はそちらには積極参加はしていないものの、なんとなく発言の多くは、そちらに流れたのではなかろうかという感じがする。より狭いネットワークで出所がはっきりした発言の方に、人々はよりどころを求めて行ったのかもしれない。もちろんいろいろ言われている通り、単なる住み分けと勢いでそのように見えるのかもしれないが…。その上でだが、やはりつながりが強すぎる中にも危うさは消えてなくて、まだまだ本当に使い勝手が良いというには至っていない。日本人論も出ているが、この社会の自己のあり方は、少し時間のかかる成熟が必要なのではなかろうか。
原因はもちろん、twitter社会での発言の荒っぽさもあるんじゃないかと思ったりする。それがすべてではないが、一種の2ちゃんねる化した風景のようなものではないか。特に原発関連はそのような様相を呈していて、右傾化の発言によく似たアクセントの強さと、非国民をたしなめる無自覚の正義が跋扈している。それはそれで仕方のない面はあるにせよ、一方的な強さは見る者を白けさせるものがある。つまり、話にならない。
先日テレビを見ていたら、このことの解説がなされていて、これは噂の現象ともよく似ているようであると分かった。噂というのは嘘の方が本当らしく響くもので(物言いがはっきりしているから)、だからこそ影響力が強い。真実を見極めるのは非常に難しく根気が必要で、だから学問というものがあるのだが、そうであるから正確なものを語ろうとすると極めて曖昧な表現にならざるを得ない。発言の弱さは正しさを含んでいる可能性があるが、だからこそ不誠実な嘘に簡単に駆逐されてしまうのだ。
つまり論理的な誤りのある発言が跋扈していても、それを訂正するには字数が不足する。140文字の最大の弱点が露呈しているわけで、今や正誤の問題よりも憎悪の連鎖の捌け口になり果てているのかもしれない。
それがずっと続くのかどうかは分からないが、もっと落ち着いた時間の経過が無ければ、元の不必要で混沌とした面白さは戻らないようにも思える。もっともそれがいいものであるのかどうかも不明だし、求められてもいないのかもしれない。そういう意味ではやはり時代は映しているという見方もできるのだろう。