読んでいる本の中で、欧米では日本人が動物に対して残酷な国民であるという認識がある、ということが紹介されていた。捕鯨問題が持ち上がる以前の話で、そのきっかけとなったのは日本の南極観測隊のとった行動であったという。映画にもなったあの「タロ、ジロ」物語のことである。一方で英国の南極観測隊も同じように犬を連れて帰れない状況になったことがあり、その時は全頭を射殺したのだという。このことについて欧米人が共通して感じるのは、射殺したことが慈悲深い行動であり、絶望的な状況で生きたまま残しておくセンチメンタリズムこそ残酷であると感じるということなのだった。
原発事故にともなって避難所に飼い犬を連れていけない状況に陥った飼い主が、一時帰宅の時に餌を与えている映像が紹介されていた。この次はいつになるか分からないということで、鎖を解けやすくするのだと言っていた。案の定帰る瀬戸際に鎖がほどけ、飼い主の車を追っていつまでも駆けて来るのだった。
考え方の違いなので、どちらが正しいということではない。しかし相手の方が残酷であるとどちらの側も考えているらしいということが、問題といえば問題だ。確かに日本人の側の行動は、目先の状況に左右された問題の先送りに過ぎない。センチメタリズムによる無責任な甘い行動と捉えられることもよく分かる。そして、多くの日本人は実際にその通りである。だが、一方で射殺までして責任を取ろうとすることが、慈悲深く尊い好意だと言われるのは大いに抵抗を感じるのではないだろうか。犬とはいえ、そこまでして相手の生命の問題まで介入して決定権を持とうとする姿勢にこそ、何か人間の傲慢ささえ感じさせられる。
基本的には自然に対する考え方の違いが根本的にあるのだろうとは思う。生命に対する自然観というものが違いすぎるのである。欧米人は自然と人間の対峙姿勢があるように感じる。自然を切り開いて自分自身の力で生き抜いているという感じだ。一方で日本の場合は、人間も動物も基本的には自然に生かされている一部であるという認識があるものではなかろうか。完全に割り切ってそうだということは必ずしも言えないが、そのような感覚を出発点として飼い犬との接し方にも違いが生まれていくようにも思う。
北欧の犬はヒトに向かって吠えることは無いといわれている。もちろんそのように躾けられているということなのだが、北欧の冬は長く人間と犬との付き合いが濃密になるらしい。そういう中で人間に向かって吠えるような犬であれば、殺されてしまうということだった。
ドイツには捨て猫や野良犬が存在しないのだという。日本でも野良犬の存在はほとんど無くなってしまったが、猫ということになると、ノラの存在はむしろ微笑ましいとさえ感じている人が多いような気もする。散歩中にも餌を準備している人をチラホラ見る。田舎というのもあるだろうが、放し飼いをしているということに、特に罪の意識などもなさそうだ。
責任感ということの、その責任の取り方についてもかなりの隔たりがある。僕も犬を飼っているけれど、手放さなければならない状況は想像すらしない。もちろん南極につれていく予定も無いが、この先飼えなくなる状況が絶対に生まれないとはもちろん言えない。しかしどのような行動をとるだろうかということは想像できて、しかし実際にどうするかはその時まで分からない。どうしても結論を出せと言われたら、考えすぎて自殺してしまうかもしれない。
欧米人の日本人に対する非難には、単純な偏見や無知が前提として存在している。そしてそのことに対して無頓着である。しかしながら日本では美談として語り継がれている出来事が欧米人への不信につながっている事実があるということは、少なくとも知っておいた方がいいのかもしれない。それで相手が納得できるかどうか知らないが、少なくとも深い溝の存在があるという事実を知ることが、お互いの為になるだろう。そしてそれは簡単な解法を許しはしない。問題は議論に勝つことではないが、それすらも相手は理解しないだろう。