何でも旬だとかブームだとかいう勢いのあるものでも、いつかは衰えるというか速度が落ちるのは当たり前だ。全体としては益々拡大しているということはあるだろうけど、その拡大する速度は落ちている感じがする。もちろん物事には限界というものがあり、ひょっとすると適性というものもあり、今が正常というということも言えるのかもしれないけれど、なんとなく、その勢いの落ち加減で、さらに減退する気分の様なものに影響を受けるということにもなるのかもしれない。つまりはそれは個人のつぶやきの頻度に表れていくのかもしれない。
なんとなく今までのようにつぶやけないことに、やはりその面白さの様なものの色あせるものを感じる。新しいや新鮮は、物珍しく楽しいということもあったわけで、慣れて慣性のあるとは認められるものの、なんとなく立ち止まってしまうことも多くなった。開いては見るがツイートを追えない。もちろん絡みも少なくて、ある程度フォロワーが増えているにもかかわらず、発言をすると却ってフォローが減ったりしている。これは今日ひろゆき氏のブログを読んで気付いたが、今までフォローしていてフォローしていたことを忘れていた人が、改めてつぶやきを拾って思い出し、(つまらなく思うか何かして)フォローを外してしまう現象なのではないかという。実際そうなのか知らないが、発言をすることでフォローが増えるのではないかという期待も淡くはあるわけで、逆の結果になるという現象にはさらに驚くというか、残念に思う。
閲覧専門の人がいるらしいことは了解しているけれど、僕だってほとんどの場合つぶやくよりトピックを追うように閲覧するのが中心であるわけだが、しかし、閲覧のみの無反応というものについては、なんとなく考えてしまうものがある。行為自体は自由だが、やはり反応が欲しいようだ。打てば響くというのは喜びで、響きが伝わったのかどうかさえ不明というのは確かに空しい。かといって自由も侵害できないし、非難もしたくない。ではそういう願いは無い物ねだりなのか。そうしてやはり足が遠のく。
まあしかしなるようにしかならないわけで、一時より発言自体は多様化し、「なう」などの言葉も見当たらなくなった。それになによりトレンド表示が日本語になって、現在の事件を追いやすくなったのは大きいと思う。例えば今日だと加藤ローサの結婚を知り(というかこの人見たことあるな、という確認みたいなものか)カンヌ国際広告際というものがあるらしいということと、その中で九州新幹線の、あの名作CMがグランプリだと知った。だからなんだ、というのがtwitterの醍醐味なのだから、それでいいのだと思う。
まあ、飽きた感じもあり、惰性が続いている感もあり怠惰だなあ、という心象風景なのである。