カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

強いものが生きにくい社会

2011-06-10 | HORROR

 人間はもともと邪悪なものなのか、それとももともとは純粋なのに生きていく上で悪を獲得していくものなのか。つまり性悪説なのか、それとも性善説なのか、という議論がある。どちらの話にもそれなりに納得できるので、場合によって違うのではないかとは思うし、どちらも正しいのであれば、人間がもともと持っている悪さと、後から獲得する悪さがあるのだから当たり前ではないかという気がいつもしている。どちらかだけであると言い切るには、あまりにも悪事が多すぎる。
 さて、これは性悪説であるといえるのだろうが、規制緩和をして自由に競争することがいいことであるという議論があると、必ずと言っていいほど行きすぎる自由は社会を壊す、というようなことをいう人がいる。何事もいきすぎは害だというのは理解できるものの、すでに行きすぎた規制があるという前提から話がスタートしているのだから、基本的には今を肯定する根拠を示す方が先だと思うのだが、そういうことは事前には言わない。代表的なのは小泉改革であるといわれ、いろんなものが壊れたらしいが、形の上で壊れたのは何であったのかさっぱり分からない。今となっては、むしろ改革には手をつけなかったのではかろうかといわれている始末である。
 まあ、政治や経済の方は、その分野の人たちにはいろいろと言い分があるんだろうが、結局良く分からない話まで展開するので結構なのだが、多くの人々の共感のある自由の恐怖というのがあるような気がする。
 確かに弱肉強食という世界は、自由な野生社会の象徴のような気がする。何も規制の無い世界に生きるということは、原始や野生の世界を観察するとよく分かるということなのだろうか。しかしながらその野生の世界を実際に観察すると、実は秩序だっておさまるところに自然におさまるようにも見える。大いなる自由の摂理。まるで神の存在を確認するかのようだ。また、確かにライオンは強いが、本当に有利に繁栄しているのは別の動物なのではあるまいか、とも考えられる。強いものが本当に頂点だというのは、人間の勝手な印象にすぎないのではないか。
 または、規制や決まり事というのは、守らない人がいるから生まれたルールであるともいえる。またはそのような危険を防止するという本来の目的があるのだろう。
 それでは決まりを守らない人達とはどういうものか。それこそが、人間の利己的な欲望の強い人達であるというのが、規制支持派の多くの印象なのではあるまいか。自分の欲求の強さのまま行動をすることが、必ず害悪への道へつながっていくという考えがあるのだろう。確かにそういうところは自分の胸に手を当てて鑑みてみても、なんとなく後ろめたく納得できる。欲しいものは際限なく欲しくなるというのは、実感のしやすい感覚かもしれない。また、決まりを守らない代表格であるヤクザの様な人達からも、決まりがあるから守られているというのは、おそらく確からしいことなのだろう。
 自由ということの背景に、実はそのような欲望や、邪悪なものがオートマティックに連想されている可能性があるのではなかろうか。まさに自由の信用の無さ、そして恐怖である。
 もちろん空気抵抗があるから鳥は自由に空が飛べるという理屈がある。多くの人々は決まりに守られて自由を満喫しているという実感が強いのだろう。そうして規制は際限なく積みあがっていく。いつかは羽ばたく余裕さえ奪ってしまうだろうところまで。
 人々の恐怖感は欲求の裏返しで際限がない。安心のための対価として、不平等な規制が蔓延しているという実感までたどり着けない。規制緩和を考えるという時に新たな規制強化の様な代替案が登場したりするのは、結局はそのような心情を払拭できないためなのではなかろうか。
 痛みや恐怖は人間の生存を守る機能との関係がある。もちろん規制に守られている既得権益を得ている人々にとっては、生存権をかけての戦いである。そうして弱者である人々にはさらに大きな規制が敷かれ守られていく。そうした正義の思想が弱い人達をもっと弱くしていくにもかかわらずである。
 弱いことが強いこと。これからも弱さを誇る競争は、激しさを増していくに違いないのである。
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