ビン・ラディンを探せ/モーガン・スパーロック監督
ニュースで伝えられている通りだとすると、ビン・ラディンは射殺されたらしい。陰謀論の方が怪しいから事実なんだろうけれど、よく分からないような幕の閉じ方だったようにも思う。一通りの区切りのようにも見えはするが、そうではないかもしれない。この映画はそんなに最近のものではないから、つまり、題名の結末は見る前から分かってはいる。問題は探すことの過程にあるらしい。
最初は自分の子供が生まれるにあたって、その子供の危険を少しでも取り除くためにテロリストのビン・ラディンを探してそのリスクを少しでも下げるというような妙な目的であるという設定になっている。もちろんそれは冗談なんだろうが、ある意味でアメリカ的な理由と言えばその通りである。テロへの報復が、アメリカの安全につながるという意識はある程度共通する感覚なのだろう。傍から見ると単なる泥沼化だが、気持ちがおさまらないから戦争をするというのは政治手段である。アメリカは国家だから、国際的な内政問題ということなのであろう。
ということでアメリカの敵である、そしてたぶん世界的なテロの狂気の首謀者であるビン・ラディンの隠れているだろう中東へ赴く。悪い人間を探しているのだから当然善意であるのだが、中東ではその捜索に必ずしも協力的なだけでは無いようだ。それよりむしろ、アメリカという国は嫌われているらしいことも感じさせられる。嫌われているだけでなく、テロを起こしている原因はアメリカの側にもともとあるのだという当然の感情を知ることになる。アメリカ人が見るとひょっとすると驚くのかもしれないが、僕は日本人だから当たり前にしか感じない。つまり演出上のやらせの様なものだ。
もちろん中東の宗教のこんがらがった不寛容の姿もさらけ出している。イスラエルが顕著だが、人々は激しい嫌悪の前に聞く耳さえ持たない。多くの一般の住民はおおらかでむしろ人懐っこささえ感じられるのに、宗教に忠実そうな立場の人たちは、頑なで恐ろしげなオーラを放っている。スパーロックはコメディを演じているが、そのジョークがまったく通じない。当たり前だと思うが、いつまでも悪乗りを続けるわけにもいかない。子供の安全のために父親の命が危うくなっていくのである。
テロを批判する気持ちが根底にあるにせよ、この映画は根本的にはアメリカ批判でもある。アメリカの正義は、当たり前だがアメリカ国内に向けてのみの正義であって、まったく国際性などは無い。もちろん同盟国は付き合っているが、それは自国の利益にかなっているからである。日本だって同じ事で、基本的には危険度があがっているように見えるが、全体的な安全のためには仕方がないから駆け引きで付き合っているにすぎない。だからこのような茶番を見ていても、もう少しアメリカ人が考えてくれればそれでいいとさえ感じるのである。多くの人を殺さないと理解できないらしいけれど、まったく分からないよりいくらかましなのであろう。
映画の結論とは違うが、ビン・ラディンが探し出された結果は射殺だった。自爆の危険があったという話もあるが、たぶん嘘だろう。裁判にかけるべきだったという話は当然出ているが、殺さなければおさまりが悪かったのだろうとも考えられる。本当の理由はそう簡単に明かされはしないだろうが、予定通りの射殺だったのではあるまいか。今はさらなる報復の連鎖が続くと思われるが、アメリカとしてはこれで終わりなのだろう。
未来の子供の平和度があがったのかどうかは、実際は真剣な問いでは無い。今のアメリカ人の心の平和度が上がったのかどうか。本音はそのための戦争だったことは明らかだ。しかし、一部の人には釈然としてない何かが残っているに違いない。そうであろうということを願うばかりである。
ニュースで伝えられている通りだとすると、ビン・ラディンは射殺されたらしい。陰謀論の方が怪しいから事実なんだろうけれど、よく分からないような幕の閉じ方だったようにも思う。一通りの区切りのようにも見えはするが、そうではないかもしれない。この映画はそんなに最近のものではないから、つまり、題名の結末は見る前から分かってはいる。問題は探すことの過程にあるらしい。
最初は自分の子供が生まれるにあたって、その子供の危険を少しでも取り除くためにテロリストのビン・ラディンを探してそのリスクを少しでも下げるというような妙な目的であるという設定になっている。もちろんそれは冗談なんだろうが、ある意味でアメリカ的な理由と言えばその通りである。テロへの報復が、アメリカの安全につながるという意識はある程度共通する感覚なのだろう。傍から見ると単なる泥沼化だが、気持ちがおさまらないから戦争をするというのは政治手段である。アメリカは国家だから、国際的な内政問題ということなのであろう。
ということでアメリカの敵である、そしてたぶん世界的なテロの狂気の首謀者であるビン・ラディンの隠れているだろう中東へ赴く。悪い人間を探しているのだから当然善意であるのだが、中東ではその捜索に必ずしも協力的なだけでは無いようだ。それよりむしろ、アメリカという国は嫌われているらしいことも感じさせられる。嫌われているだけでなく、テロを起こしている原因はアメリカの側にもともとあるのだという当然の感情を知ることになる。アメリカ人が見るとひょっとすると驚くのかもしれないが、僕は日本人だから当たり前にしか感じない。つまり演出上のやらせの様なものだ。
もちろん中東の宗教のこんがらがった不寛容の姿もさらけ出している。イスラエルが顕著だが、人々は激しい嫌悪の前に聞く耳さえ持たない。多くの一般の住民はおおらかでむしろ人懐っこささえ感じられるのに、宗教に忠実そうな立場の人たちは、頑なで恐ろしげなオーラを放っている。スパーロックはコメディを演じているが、そのジョークがまったく通じない。当たり前だと思うが、いつまでも悪乗りを続けるわけにもいかない。子供の安全のために父親の命が危うくなっていくのである。
テロを批判する気持ちが根底にあるにせよ、この映画は根本的にはアメリカ批判でもある。アメリカの正義は、当たり前だがアメリカ国内に向けてのみの正義であって、まったく国際性などは無い。もちろん同盟国は付き合っているが、それは自国の利益にかなっているからである。日本だって同じ事で、基本的には危険度があがっているように見えるが、全体的な安全のためには仕方がないから駆け引きで付き合っているにすぎない。だからこのような茶番を見ていても、もう少しアメリカ人が考えてくれればそれでいいとさえ感じるのである。多くの人を殺さないと理解できないらしいけれど、まったく分からないよりいくらかましなのであろう。
映画の結論とは違うが、ビン・ラディンが探し出された結果は射殺だった。自爆の危険があったという話もあるが、たぶん嘘だろう。裁判にかけるべきだったという話は当然出ているが、殺さなければおさまりが悪かったのだろうとも考えられる。本当の理由はそう簡単に明かされはしないだろうが、予定通りの射殺だったのではあるまいか。今はさらなる報復の連鎖が続くと思われるが、アメリカとしてはこれで終わりなのだろう。
未来の子供の平和度があがったのかどうかは、実際は真剣な問いでは無い。今のアメリカ人の心の平和度が上がったのかどうか。本音はそのための戦争だったことは明らかだ。しかし、一部の人には釈然としてない何かが残っているに違いない。そうであろうということを願うばかりである。