北米体験再考/鶴見俊輔著(岩波新書)
なんとなく紀行文の様なものかと思って手に取ったのだが、どうも様子が違うようだ。戦時中に北米に留学していた著者は、敵国日本人ということもあってか、つかまって取り調べを受ける。何もしていないのだからそのまま残っても良かったのだが、何故か帰国を選択してしまう。その後日本は負けたのだから、恐らくそういう選択をした方が苦労したに違いないのだが、留学当時から著者は漠然と反米意識を持っていたらしい。日本のエリート知識人であり、かつ反米思想をもつ左側の人の人生を振り返るということになっていく。
米国内では日本人は少数の立場であった所為で、同じく少数の虐げられてきた立場の人達とのかかわりがあったものらしい。日本人自体は特に迫害を受けてきたわけではないのだが、米国の歴史の中で、まさに命を削りながら戦ってきた少数者からは、好意を持って接せられるという立場にあったようなのだ。
アメリカというのは、人種的に正に複雑な国である。もともとの原住民であるインディアンから土地を奪い彼らを虐殺して住み込んだ歴史から、黒人の奴隷を使い差別しながら発展をしてきたという土台を持っている。その上で左側知識人までも迫害しながら、曲りなりにも現在に至るまで、悩みながら、偏見を抱えながら、ある意味で成長を遂げてきた超巨大な国家である。問題は内包しているが、今現在に至るまで、たくましくも世界の王である。傲慢で厄介だが、君臨者としては、現在に至るまで、その力強さは変わらないようにも思える。
そういう姿に、やはり一貫して反米意識を持ちながら対面してきた自分というものはいったい何なのか。個人の体験であり、しかし同時にアメリカの深いところでドロドロと渦巻く傲慢な姿をあぶり出していく作業を通して、近代アメリカの苦悩や問題点を考えていくということになる。それは、多くの日本や日本人にも共通して理解できる反米感情の姿であるとも考えられる。もちろん多くの人は運動家ではなく、静かに傍観しているだけなのだろうけれど、米国に好感を持ちながらも、どこか割り切れない感情も同時に持ち合わせているのではなかろうか。漠然と形にならないまでも、それが何なのかというのは、著者の視点を交えて考えることにもなっていくのだろう。
僕の中にもかなりはっきりとした反米感情はある。しかしながら同時にアメリカから逃れられない立場がそうさせていることも理解できて、客観的な憧れられる米国というのもよく分かる気がする。比較して日本という国の将来においても、恐らくこれからも続くだろう米国との関係が、やはり重要であることに変わりがないことも理解している。逃れられない一蓮托生でもあり、しかし離れたくも無い頼もしさもあるのだろう。今の日本は誤解を恐れず言い切ってしまえば、アメリカ無しに現在を迎えられなかった。事実は事実として受け入れ、これからも考えていかなくてはならない、かなり重要度の高い対象なのである。それがあるときには情けなくもあり憎らしくもあるのであろう。
僕自身は必ずしも左側の知識人にシンパシーを感じないのだけれど、彼らの分析する米国の姿には考えさせられることが多いのも確かだ。この本でももともと知っていることも含めて、改めて歪んだ米国の精神史の様なものが垣間見えて、そして日本という立場が、このゆがみの中で翻弄され続ける怒りの様なものを共有することは多かったのである。そして、やはりどこか無力に見える日本についても、少なからぬ怒りの様なものを、もどかしくも感じたのだった。
国に対峙するなかで、個人の力というのはあまりにも小さい。しかしながら個人が深く考えることによって、その国の在り方というものを見つけ出すことは可能だろう。そして、そのことが本当に共感を持って受け入れられる事があるのなら、ひょっとすると流れをつかむこともできていくのかもしれない。誰もが運動家にはならないといったが、今や世論は(行使されることが無い)武器よりも力が強い存在になった。そして多くの人は、本当の米国史などは深くは知らない。知っていることが本当に武器になりえることも、個人としては知っておいてよいと思う。むしろ知識人が力強いのも、このような共感を理解できる度量あってのものなのだろう。
紀行文ではなかったものの、読後感としては、思考の旅はできたのではないだろうか。
なんとなく紀行文の様なものかと思って手に取ったのだが、どうも様子が違うようだ。戦時中に北米に留学していた著者は、敵国日本人ということもあってか、つかまって取り調べを受ける。何もしていないのだからそのまま残っても良かったのだが、何故か帰国を選択してしまう。その後日本は負けたのだから、恐らくそういう選択をした方が苦労したに違いないのだが、留学当時から著者は漠然と反米意識を持っていたらしい。日本のエリート知識人であり、かつ反米思想をもつ左側の人の人生を振り返るということになっていく。
米国内では日本人は少数の立場であった所為で、同じく少数の虐げられてきた立場の人達とのかかわりがあったものらしい。日本人自体は特に迫害を受けてきたわけではないのだが、米国の歴史の中で、まさに命を削りながら戦ってきた少数者からは、好意を持って接せられるという立場にあったようなのだ。
アメリカというのは、人種的に正に複雑な国である。もともとの原住民であるインディアンから土地を奪い彼らを虐殺して住み込んだ歴史から、黒人の奴隷を使い差別しながら発展をしてきたという土台を持っている。その上で左側知識人までも迫害しながら、曲りなりにも現在に至るまで、悩みながら、偏見を抱えながら、ある意味で成長を遂げてきた超巨大な国家である。問題は内包しているが、今現在に至るまで、たくましくも世界の王である。傲慢で厄介だが、君臨者としては、現在に至るまで、その力強さは変わらないようにも思える。
そういう姿に、やはり一貫して反米意識を持ちながら対面してきた自分というものはいったい何なのか。個人の体験であり、しかし同時にアメリカの深いところでドロドロと渦巻く傲慢な姿をあぶり出していく作業を通して、近代アメリカの苦悩や問題点を考えていくということになる。それは、多くの日本や日本人にも共通して理解できる反米感情の姿であるとも考えられる。もちろん多くの人は運動家ではなく、静かに傍観しているだけなのだろうけれど、米国に好感を持ちながらも、どこか割り切れない感情も同時に持ち合わせているのではなかろうか。漠然と形にならないまでも、それが何なのかというのは、著者の視点を交えて考えることにもなっていくのだろう。
僕の中にもかなりはっきりとした反米感情はある。しかしながら同時にアメリカから逃れられない立場がそうさせていることも理解できて、客観的な憧れられる米国というのもよく分かる気がする。比較して日本という国の将来においても、恐らくこれからも続くだろう米国との関係が、やはり重要であることに変わりがないことも理解している。逃れられない一蓮托生でもあり、しかし離れたくも無い頼もしさもあるのだろう。今の日本は誤解を恐れず言い切ってしまえば、アメリカ無しに現在を迎えられなかった。事実は事実として受け入れ、これからも考えていかなくてはならない、かなり重要度の高い対象なのである。それがあるときには情けなくもあり憎らしくもあるのであろう。
僕自身は必ずしも左側の知識人にシンパシーを感じないのだけれど、彼らの分析する米国の姿には考えさせられることが多いのも確かだ。この本でももともと知っていることも含めて、改めて歪んだ米国の精神史の様なものが垣間見えて、そして日本という立場が、このゆがみの中で翻弄され続ける怒りの様なものを共有することは多かったのである。そして、やはりどこか無力に見える日本についても、少なからぬ怒りの様なものを、もどかしくも感じたのだった。
国に対峙するなかで、個人の力というのはあまりにも小さい。しかしながら個人が深く考えることによって、その国の在り方というものを見つけ出すことは可能だろう。そして、そのことが本当に共感を持って受け入れられる事があるのなら、ひょっとすると流れをつかむこともできていくのかもしれない。誰もが運動家にはならないといったが、今や世論は(行使されることが無い)武器よりも力が強い存在になった。そして多くの人は、本当の米国史などは深くは知らない。知っていることが本当に武器になりえることも、個人としては知っておいてよいと思う。むしろ知識人が力強いのも、このような共感を理解できる度量あってのものなのだろう。
紀行文ではなかったものの、読後感としては、思考の旅はできたのではないだろうか。