若者の投票率が低いのが嘆かわしい事だというのは、その通りである。そのことで日本の政策は若者を虐げているという図式というか、事実としてそうなっていることも間違いがない。実際に損をしているのに、それでも若者は投票には行かない。それでは単に若いというのは馬鹿と同義である。しかし、馬鹿だからそうなっても仕方がないということで済むのだろうか。馬鹿な国民の一部を虐げても良いという考えには、何か納得できかねるものを感じる。弱者を守る役割は、誰が果たさなければならないのだろうか。
馬鹿であることを甘んじているのは、本人に馬鹿である自覚が無いからではないか。またその様に虐げられている事実に対して、実感が無いというのもあるだろう。馬鹿だというのは煽りだけれど、その様な事でも行動を起こせないのは、馬鹿を通り越している。そして馬鹿にさせられているのには、たぶん理由があるはずである。
もともとシステムとして若者の意見を取り込むことに、選挙という制度は向いていないのではなかろうか。もしくはそもそも欠陥があるためではないのだろうか。それは民主主義という制度そのものが持っている欠陥なのだろうか。
ところが若者であって投票率の高い国があるらしい。北欧は比較的そのようだし、オーストラリアみたいな国でも相当高そうである。左っぽいとか右っぽいというようなイデオロギーの問題でもなさそうだ。
もう少し掘り下げて学問的に考える方法はあるだろうけれど、子供と関係のある環境ということでは、思い当たるフシがある。それは他ならぬ学校である。学校で選挙を教えないということは無いが、選挙に向かない人を育てる教育を、知らず知らず施している可能性は無いだろうか。民主的な意見を取り込んで、反映させるような取り組みというのは、少なからずやっているはずである。それは僕にも覚えがあるが、しかしその様な学校のシステムを経験した後に、大人になって選挙に行くようになるのかということに、やはり関連が薄いという気がする。社会というシステムと子供の置かれている関連というものが分断されており、大人社会に慣れないことには、そもそもその新しい環境のルールが飲みこめないということもありそうである。
投票権はしかるべき年齢になって持てるようになる権利である。しかししかるべき年齢になってその様な判断を行使しないことには、たぶん他に理由がある。厳格に言うとまだ大人では無いということもあるし、選挙につながる接点をまだ持っていないとも考えられる。自分がまだ関係を持てないのなら、選挙へのハードルは高いのかもしれない。
実際に政治家との距離が遠いということも考えられる。自分がわざわざ出向いて行って、政策を聞きにいくという行動を起こすような人は、よっぽど奇特な人なのかもしれない。では誘ってくれる人が居ないのかというと、誘ってくれるような人を信用できないというのもあるのかもしれない。
日本の封建的な部分の基礎になっている儒教的な習慣、というものも背景にはあるかもしれない。しかしこれは、ある意味で既にかなり崩壊もしているようにも言われる。それに儒教的なシステムに任せていれば、若者のことも含めて年長者は考えていたはずなのだから、若者に不利な状況を作っているということになると、既に儒教的でさえないとも言える。年長者だけのシステムに若者が入っていないというだけのことなのかもしれない。
しかしながら若者が参加していない状況でこのような結果になっているということを更に考えてみると、政治家自身が若者を抜きにして戦うことを前提にしているということも言えるかもしれない。彼らの職業を決める要素に若者を入れないことに、有利性があると考えているのかもしれないし、もしくは諦めているということだろう。参加するようになると、若者向けのオプションを準備せざるを得なくなるが、高齢施策を約束することと矛盾もあるので出来ない、ということもあるのかもしれない。
そうであるならば、若者を取り込むことにはリスクもあるが、伸びしろもあると考えることもできる。もともと投票意識の低い層を取り込めると、今までと違った力を得ることもできるだろう。政治家自身が若返ると、そう考える人も増えるかもしれない。
既に病理的な感じもするので、即効性のある方法は難しいかもしれないが、若者に何らかのかかわりを持たせることに成功すれば、政治家自身が政策を練り直す可能性は十分にあるだろうとは思われる。教育と切り離してある現状も含め、やり方はいくつかありそうだ。たとえ投票率が目に見えてあがらないということになっても、選挙期間中に限らず政治家と若者に接点を作ることに成功すると、対話の上で政策が変化する可能性がある。
政治家だけが悪いのではなく、その様なシステムにするアイディアさえあれば、改善の余地はあるはずなのだ。基本的には、呼んでも来ないのであるから、行ってみるしか無かろう。もちろんそれでも逃げられる、ということなのかもしれないのだけれど…。