風の歌が聴きたい/大林宣彦監督
聾唖の二人の出会いから結婚、トライアスロンに出場することと出産をからめての物語である。淡々と丁寧にお話は進行して行って、特に大きな事件(いや、事件的なことはいつも起きているのだが)が起こる訳ではないし、後のインタビューで監督が話している通り、お涙ちょうだいの障害者映画なのではない。そうなんだけれど、実にこれが感動的というか、本当に素直に聾唖とは何か、障害とは何か、そうしてしあわせとは何だということを考えることになる。これは素晴らしい映画ではないか。そうしてこのような自然な物語の素地となった実在の人物の事実らしいエピソードこそが、これほどの力を持つことにこそ、静かな驚きと感動を覚えるのではなかろうか。
そもそも主人公の二人がユニークという気がする。文通からおつき合いが始まるのだが、最初からかわいい女の子目当ての下心のある少年の策略に乗りながら、しかし普通にカッコいい彼氏の居る女の子には二股かけているような屈託は何もない。思惑がすれ違ったまま文通は何故か続き、二人は出会うことになる。不良だけどどこか気の小さいところのある男の子と、か弱い存在にありながら、どこか自己中心的に信念をつきとおす女の子との恋の物語とおもいきや、大人になっても文通は続いて、結局は同棲を始めて親から怒られて結婚に至るという感じも、まったく屈託が無い。もちろん、それは素直すぎるからそうなるわけで、音のある世界の、特に日本人には無いラテン系の明るさが感じられる。つまり文化というのは、音の制約を受けて物事を縛っている現実があるのではないか。そんなことも考えさせられるのだった。
確かに耳が聞こえないことで、僕らの想像を絶する不便さがある。それに社会的な圧力も大きい。実際のエピソードでも、下手をすると生死にかかわる問題も起こりうる。また人間の尊厳そのものを否定されるようなことも、平気でされてしまう。用心をすると別の問題が持ち上がってくる。単独で生きて行こうとすると、自分一人ではどうにもならない問題も数多いのではないか。
そうして中であってもトライアスロンと出会うことで、さらに自分らの力を自由に発揮できる道を自ら切り開こうとしているようにも見える。その上妊娠するということになると、突き詰めて生まれてくる子のことを思わざるを得ない。自分らの障害のことを鏡みると複雑な心境にもなってしまうのだ。しかし出産を決断するのは、「自分たちは不便だったが不幸だった訳じゃない」というのだ。そういうことを言えたり考えられたりするというのは、それなりに何かを考えて来た人間でなければできないことなのではなかろうか。それはぜんぜん作りものの言葉では無くて、本当に映画そのものにも力を与えうるほどの、真実の思いなのではないか。
安っぽい感動作でも無く、かと言って堅苦しい話でも無い。明るく笑いながら観て十分観賞に耐えうる娯楽作であることが、何よりこの映画の素晴らしさだと思うのだった。