カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

「総括」をするのは誰か    実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

2013-12-18 | 映画

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程/若松孝二監督

 浅間山荘については追体験でしかない。当時は自分自身が幼すぎる。しかし、知らない訳ではない。相当な事件として僕らの世代は聞かされてはいる。僕らの両親には若いが、しかしそれなりの付き合いのある先輩世代。ちょうど遠いという感じかもしれない。
 接点は無いのだが、日本でこのような事件が起こる。それは少し考えていいかもしれない。何故なら、ふつうのテロとは違うような、そんな感じも少しする。いや、例えば今の過激なイスラムの若者はこの映画を見てどう思うか。そんなことも考えて見なくてはならないのではないか。そんな気がする。閉鎖的すぎるから、アジア的な感じもする。それなら北朝鮮の人に、この映画を見てもらってはどうか。たぶん、だけれど、けっこう共感があるのではないか。もしくは、完全に否定するだろう。それくらい強烈にこの状況を理解できるかもしれないと思う。
 有名な事件だから、映画の物語自体は、いわば多くの人が知っていることなんじゃなかろうかと思う。しかしそれでも、新たなる発見を見出すことがあるのではないか。史実に近いだろう迫力があり、役者さんの演技だけれど、本当にその臨場感というのはドキュメンタリー的でもある。ひたすら「総括」というわけのわからない単語に振り回される場面が続く。便利な言葉に人間が翻弄される。何をどう答えようと恣意的な解釈が可能な見事な洗脳用語。
 しかしこれは左派の思想だけということではない。昭和日本の極右であったものも、同じだったはずなのだ。それこそが日本人。異常なほどのホラー社会が、実は日本の村社会のさらに縮図だと気づかない人は鈍感だと思う。日本人の姿。異常だけれど自分か、もしくは隣人か、本当に知っている誰かに似た人。それが、この映画の人々なのだ。
 中盤はひたすらホラーで、狂気でおそろしい暴力が続く。この人たちはおのずから破滅するより無いということは感じ取れるが、本当に自分たちの逃げ場がない。逃げた人もいるが、しかし逃げきれない人がほとんどだ。そうして、リンチで殺される。みな何を考えていたのかはわからないが、首謀者というかリーダーが、浅間山荘を待たずに逮捕されるのは、ミスというより、今となっては一番の安寧の方法だったのではないかとさえ思われる。彼らの青春の一瞬の判断ミスで、しかし彼らはいまだに刑務所の中だ。ほとんどの頭脳優秀な人々だったものが、時代の空気だけのことで、一生を棒に振ったわけだ。
 僕だって左の思想に感化された時代はあった。それはしかし、中学生とか高校生とかいう幼い一時期の麻疹みたいなものだった。個人の経験だから一般化などはできないが、チャーチルが言うような「若いころに左傾化しない人間は心が無く、年をとってもそのままの人間は頭が足りない」というような言葉は皮肉ながら真実に違いないと思う。要は自分の立ち位置で何を正当化して考えるかということに過ぎない。
 人間の本当の恐ろしさが時代の中で、この日本の身近な中で起こった。しかし単にちょっと昔の異常な人間の起こした特殊な事件だったのか。見るものによってはそう思う可能性もないではないが、しかしこれは普通のインテリの普通の反応として起こった事件だったはずだと僕は思う。むしろ感受性の強い正義感の強い、そうしてあえて言うが善良な感受性のある人間だから陥ってしまった小さな日本のさらに縮図なのである。似ている事象はいたるところに転がっており、たぶん現代にもありふれている。
 そういうことを考えるためにもこの映画は見られるべきだと思う。かなりつらい体験になろうとも、自分自身の姿くらいは見る必要はたまにはあるんじゃないか。それがまったくの自分とは違った別の姿だと思う人間が、たぶん同じ過ちを犯すに違いないと僕は想像する。つまるところ本当の「総括」とは、そういうことなんじゃないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする