選挙のたびに思うが、やはり他人の中傷がそれなりに多くなる。疑問があるからそれを問うのはいいとは思うが、その答えを聞かないままに外れていく人のなんと多いことか。もっとも答えを聞いたところで理解できるかどうかの問題はあるが。
また、政治なのだから批判は当然だというのも分かるのだが、その批判に当たる場合なのかはもう少し考えた方がいいとも思う。思うが何かひどく中傷した方が自分の偉さが際立つと考えている人もいるのは確かで、何に傷ついたのかは知らないが、治療した方がいいのではなかろうか。陰謀論なんかもあるが、そういう人は宇宙人に相談してからにした方がいいだろう。おそらくそういう人には、宇宙人は会いに来てくれるはずだから。
以前は政策論争こそ大切だと、ずっと信じていた(僕も若かったので)。しかし政策は、やる気のない嘘をつける人の方が有利である。思い切って無理が言える。何かを約束したり言い切ったりすることができるのは、政治家の素質として、果たしていいものかは分からない。どこまで極めても分かりえないのだから、それを判断材料にしていいのかは怪しい。堅実なのはつまらない訳で、正直者はそもそも政治家には向かない(それでいいとは思えないが)。本人は嘘を言っているつもりはないのかもしれないが、だからこそ自分を信じられるという意味では、やはり才能である。
つまるところ、政治家の資質は期待感である。選挙に上がった後に何かをやる人というのは、それに尽きる。今既に政治家で、これまでも何かやったというのは良いが、だから次も何かをやれそう、が重要である。政治の中身はどこまでいっても調整力のはずだが、しかし投票する人に理解されることはほとんど無いだろう。一緒に仕事をしているのなら別だが、ほとんどの人の仕事は政治ではない。だからこそ期待値の多き人が強い政治家である。政治家の仕事ができる人が政治家になった方がいいのだが、しかしそれは絶対にわかりえない。限られた情報を持っている人以外には、それは理解できない領域だ。だからこそ、本当に何かをやってくれる(それは自分の望む感じの良さという感覚に過ぎないが)ということを、信じられるかどうかだ。実のところ僕自身はそこまで信じられる自信はないけれど、たとえ消去法であっても、比較して優位になる方がいいということになる。結局は話を聞いてみて、いい感じかもなとか、僕の友達もいるしな(これは正直すぎるか)、とか、そういうよさげな感覚の自分を信じるよりない。つまるところそれは、自分に対しての信任を賭ける行為で、そういう自分の考えを糺す行為だ。責任は候補者ではなく、自分自身にある。もちろんそんなことに誘導している責任の一端は選挙そのものにあるが、一人に一票しか投票用紙は無いのだから、それに書いた人に、小さいながらもそうした力が働くのだ。応援しても、スポーツのプレイヤーのようにゴールを決めるのを眺めることはできない。何故なら、投票行為がプレイなので、プレイヤーは自分自身なのだ。それが選挙であるから、やっぱり厄介なのかもしれない。