カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

グルメの人は近寄らないでください

2023-01-16 | 

 僕はいわゆるグルメな人ではないし、食べ物に関してはおおらかな人間だと思うが、だからと言っておいしいものを食べたくないわけではないし、不味いものに平気なわけではない。そんなことは考えなくても当たり前のことだと思うのだが、どうしてもおいしいものを食べたい欲の強い人には、なかなかそういうことは伝わりにくい感触がある。確かに食べ歩きなんかだと当たりはずれはあるものかもしれないが、まあそうだったね、というだけの話であり、その場で何か話をすることの方が重要である場合が多くて、なかなか食がメインでないのかな、ということなのかもしれない。もっとも何かのセレモニーを兼ねていて、特別なしつらえがしてあるのであれば、あれは良かったなと思い出しはすると思うけれど、そういうことのみをいつも求めているわけではない。僕は皇帝のような存在ではないし、だからそれが残念なことでもないので、毎日超豪華な食べ物に囲まれて暮らすようなことに、みじんも憧れを抱けない。普段地味でも、ときどき豪華だったりするから、ある種の感動が生まれることも大きい訳で、そりゃあ毎日時間やお金の制約が厳しくて、インスタント食品のようなのばかりでは苦しくなるのかもしれないが、実際の暮らしではありがたいことにそうではない訳なので、食に対する不満はほとんどないのである。
 だからだけれど、どんなものを食べておいしいかと感じるのは、実のところポテトサラダだったり、赤いソーセージだったりするのであって、実に身近にというか、しかし作ってくれることに、心底感謝している。本当に旨いし、ありがたい。
 料理というのは確かに不思議なところがあって、ポテトサラダが好きだからと言って、どこで食べてもこのポテトサラダが最高に旨いと感じるわけではない。出張などで朝食にポテトサラダがあって嬉しい時もあるが、食べてみるとなんだか違うな、というがっかり感がある場合がある。そういうこともすぐに忘れてしまうとはいえ、なんでこうも違うものかな、とはふと思う。具材の処理が気に食わないのか、調味料の加減が違うのかもしれない。ひょっとして少し古くなっている場合だってあるかもしれない。さらに自分の体調が思わしくない場合だってあって、好きだとはいえ、食べるのをあきらめたりする。卵焼きのようなものでも、食べるのがつらい場合があるので、そういうのは、僕自身にも問題があるのだろう。何事も相対的な関係性が重要なので、そのうえではじめて「おいしい」というのは成立する。高い店で著名だからと言って、自分には合わない料理があるとしても、それは自分の舌が崇高だからであるということとはほとんど違って、自分の期待感などの感覚などと相まって、きわめて矮小な自分の感覚が左右させる結果に過ぎないのである。要するに「旨い」という感覚は、研ぎ澄まして鍛えられたものではなく、きわめて偶然の出会いが作用する運のようなものなのではないか。自分の運をどうにかできるのであれば、まあ、頑張ってやってみればいい。できればそういうのに付き合わされるのは、ごめんだけれど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする