選挙では投票率の問題がいつも取り上げられる。率が下がっているのが問題だというのは、おおむね共有できることかもしれないが、いわゆる一定の歴史を経て民主化した国では、だいたいにおいて投票率が下がる傾向がある。しかしながら政治参加する文化という点で、それなりに投票率が高い国があるらしく(それでも下がっているが)、それらに比べて日本は……、という話になりやすいのだろう。投票を義務化しているオーストラリアのような国もあって、罰金や処罰があるが、それでも90%というから、投票率は確かにその所為で高いのは分かるが、じゃあそれでも10%も選挙に行かない人がいることに脅威も覚える。さらに義務化すると無効票も同時に増えるらしいので、関心のない人はどうやってもまじめに選挙なんかしたくない、ということが見て取れる。人間の多様性が言われている世の中にあって、そのようなひねくれものが一定数いることを、ある程度は許容する必要もあるのかもしれない。
そうではあるが、問題は日本のように、50%程度しか投票しなくなってしまった問題、というのはある。選挙というのは民意の表れでもあるので、半分が棄権する政治に果たして民意が反映されているのか問題、という事らしい。一票の重さについては、憲法違反を騒いでいる法曹界のような考えもあるが、いくら騒いだところで、一票はそんなに重いものでは無くなっているのである。格差がある上に投票率は都市部と地方ではかなり差が出る。合理的に見えるように合わせてみても、そもそもそれは正確な民意ではありえないのである。まあ、言わんとすることは分からんでは無いが、人の移動の自由がある以上、そういうのは合わせるだけひずみが出ることだろう。
天気が悪くても投票率は下がる。しかし天気はどうにもならないので、問題は不在者投票のようなことになる。マイナンバーカードもあることだし、IDがしっかりしていれば、ネット選挙も十分可能であろうが、これも混乱があることが見こされるので、あえて導入されそうにない。確実に投票率は上がる上に、早く投票してよ、とか個別にアナウンスまで出来るだろうに……。まあ、そんなことを行政はしたくないだろうけどね。
しかしながら投票所が近い方が選挙に行くというデータもあるらしく、利便性は案外大きな問題である。だからと言ってむやみに投票所は増やせないのだから、ショッピングモールなどの投票所設置は、それなりに合理的なのである。行けない人問題もあるが、それのカバーには福祉的な視点も必要そうだ。
女性候補が増えると投票率も少し上がる。やはり誰が出るのかという関心はあるので、そのような多様な候補者と受け皿を作るというのは、まだまだやれそうなことだ。政党が増えるといくぶんか投票率が上がったことがあるともいわれるが、これも比例などの問題もあり、死に票が増える制度でもある。二大政党制が望ましいと言われていた時代もあるが、日本ではやはり流行りの問題のような感じもする。実際二大政党の国よりも連立政権の国の方が多数派であることから、日本がそんなに変わった特異性のあるものではない。時には政権交代した方がいいという理屈はあるにせよ、それがどんな理由なのかの方が問題が多く、なんだかんだといって僕らの世代はむしろ懲りている感じもあるのではないか。まあ、そんなことは起こりやすい仕組みにはなっているものの、やっぱり危険も感じるのかもしれない。
これを書いている時期と世論との事情がある訳だが(※9月18日に書いたものだから)、政策論争を一般的な投票権の無い人が多い時期になされることがあって、改めて報道も過熱し、具体論まで解説が日々なされていた。こういうものこそが政治には必要な気がしたわけだが、選挙になると、またどうでもいいようなバラマキ政策とスキャンダルが主な論争になりがちだ。内容を問うているのに、内容が無くなるのだから、どうしようもない。つまるところそういう事に失望しているらしいことは見て取れるわけで、政策論争は選挙以外でも、恒久的にやって欲しい。そういうものを取り上げるメディアも重要で、地道にそれらを取り上げて解説すべきだろう。ニュースバリューが無いと勝手に決めつけているから、政治は育たない。事実、論争はかなり面白かったわけで、こういうのを実際に政治家は語りたいのではないかとも感じた。それはこの国の未来でもあり、現在だ。やはり投票率は、政治参加とともにあってなんぼ、なんである。