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Mind Feeling 0805-1

2007年08月05日 19時50分38秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59

 リンクを貼らせて頂いた方との出会いの話とちょっとしたエピソードを書いてみたい。
 出会いは今から約2年前の8月28日の事。
 つくばエクスプレスが開業して騒がれていた頃だった。私も、1度は乗ってみたいと思っており、日時をどうするか…を考えていた。だが、最高速度130Km/hと謳われていたつくばエクスプレスだったが、実際には125~127KM/Hが平均最高速度であり、魅力には少し欠けていたのも事実だった。
 また、その当時、世間一般に社会人として生きては居たが、毎日が辛かった。日々生きているだけでも、面倒…という所だった。これと言った友達も居らず、孤独だった。「ひとりカラオケ」や「夜中の首都高1周の旅」をやったりはしていたが、どこか満たされないで居た。
 「OFF会」というものに、惹かれたのもその頃だったのだが、なめられ易い私である。行ったらいったで、ひどい目にあう…といわれた事があり、手をこまねいていた。そんな時、とあるウェブサイトで「つくばエクスプレスに乗ってみましょう」という内容のOFF会を見つけた。ちゃんと主催者の顔写真まで解る様になっていて、その方のホームページやメールアドレスまで掲載があった。個人情報をこんな形で掲載することは自殺行為である事は解っては居たが、興味がうせることはなかった。
 8月27日がやって来た。特にこれと言った思い出も出来ずやらず終いで、日々の生活もブルーでヘヴィーなままだったので、一先ず、いつもの夜中の首都高1周の旅へ、8月28日の午前0時が過ぎてから赴いた。ストレス無く走れる事はいつも通りで、楽しかった。それで勢いがついた。旅を終えたのは午前5時だった。このまま、あのOFFへ行ってみようと私は思い、ほんの少しだけ眠りにつき、集合場所だった秋葉原へ向かった。すると、主催者様がちゃんと居た。そこへ、リンクを張ったブログサイトの管理人様が偶然通りかかり、その方の知り合いを1人をお誘いになり、OFF会が始まった。
 つくばエクスプレスは、速かった。120Km/h以上の運転は、JR路線以外ではその路線が唯一。車内で、鉄道の話で盛り上がった。久しぶりに、家族以外の人間とまともに趣味の話で盛り上がったし、それまで付き合っていた地元の鉄道仲間との雰囲気とは違い、とても刺激的だった。
 これがきっかけで、その後も小さなOFF会が執り行われた。つくばエクスプレスを主催した方は、本当に鉄道の知識が深く、私はただただ関心するばかりだった。大好きな京浜急行に関する話題でも丁寧にご対応頂き、嬉しい事この上なかった。
 そんなOFF会で、「急行かすが」に乗ってみようか…という話が出て来た。もっとも私が「乗ってみたい!」と言ったのだが。確か、大都市名古屋にディーゼル車2両で乗り入れてくるのは凄い…という話になって、私が、是非、乗ってみよう…という話をした様に記憶している。
 やがて2006年1月がやって来た。その月に発売された鉄道ファンに「急行かすが廃止」という話題が出てきた。はやく実行しなければ…という事態に陥ったのだが、何しろ1月で正月休みも終わり、連休は無い。しかし、時間はない。一応、連絡はしてみたが全員の折り合いがつきそうになかったのだが、リンクにあるブログを運営している管理人様がたまたまその頃、名古屋にいらしたので、やっても構わない、と言う了承を得ていた。後は、私が行けば済む話だった。もうあとには引けない!その一心で、2006年1月28日に名古屋へ赴き、急行かすがに乗った。JRの急行に乗ったのはそれが初めてだった。
 関西本線の山間の風景は、忍者が出そうな森があり、子供の様に私ははしゃいでしまった。そして、後ろ向きで乗った所為で、すっかり酔ってしまい後に物凄い迷惑をかけてしまったのだが…。
 急行かすがに乗ったその日は、神戸鉄道で有馬温泉に行った。テレビゲーム『さんまの名探偵』で登場する所で、一度は行ってみたいと思っていた場所だった。温泉に入り、そんなマイナーとも言えるゲームの話をしたのを鮮明に覚えている。
 そして、最後の日は、近鉄の名阪特急に初めて乗車した。ノンストップ特急ではなかったが、有名な青山トンネルを越える事が出来て良かった。名古屋に到着後は、名鉄に乗った。快速特急に乗りたい!というリクエストにお応え頂き、中部国際空港へ向かった。車内の英語放送でしっかりと“This is a Rapid Limited Express bound for Central Japan International Airport.”と案内され、萌えた。京浜急行や阪急では“Limited Express”なので、刺激的だった。また120Km/hもばっちり出まして、すげーと思ったりしました。
 そんな感じで、このリンクを貼らせて頂いた管理人お2人方とお付き合いが続いている。この方達に出会わなかったから、きっと自分の人生は悲惨なものになっていた事は間違い無い。これからも大切にしていきたいと思っている。

  

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急行特急とフリーランス

2007年08月05日 17時02分19秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59

 快速特急があるなら、急行特急だってあって良いだろう…という事で出来たというか設定したのがこの名前であると言う話は、以前話した通りである。
 フリーランスの全身と言うかきっかけをくれたのは、今は廃刊となってしまった『MATT時刻表』にある。知ったのは中学2年の頃だったと思う。その時刻表から、京浜急行に“WING”号という列車がある事、JR東海道線・京葉線・埼京線・宇都宮線・高崎線・常磐線・総武線にそれぞれ停車駅が大幅に減る「通勤快速」の存在がある事、北総線(当時は北総公団線)に「急行」がある事、京成に「通勤特急」という電車がある事、JR東海道線に湘南ライナーと湘南新宿ライナーがある事が解った。
 一番初めは、横浜線上で通勤快速をつくったりして、楽しんでいた。先述の京葉線の通勤快速の「ノンストップ区間が長い事」には強い魅力を感じていたので、横浜線にも応用したりした。
 その後、駅名を自分で適当に作り出して、脳内妄想の架空路線を作り出した。その中で、急行特急という名の電車が生まれた。こんな1人遊びに、たまたま当時、鉄道好きだった人間が1人が加わり、互いに妄想路線を作って相互乗り入れを開始した。この時も、「時刻表」だけだった。
 その乗り入れは、今も好きな「都営浅草線ファミリー」を真似、全駅が地下駅である区間を設けた。その地価区間の路線を介して相互乗り入れという形を取った。
 相互乗り入れに際しては、もう30年から40年位前にあった「京急-都営-京成 直通
列車」を真似た。京浜急行のカラーブックスで、そんな運用がかつてあったという事を知り、京急線内快速特急、都営線内各駅停車、京成線内特急であったので、そんな感じで行こうと思っていた。つまり、地下区間は各駅停車という事にしようと思ったのだが、相手の急行運転をしたい、という要望を受けた。
 自分の路線には、「急行特急」があったのだが、相手の路線には「快速特急」があった。多分、名前からして「いかにも速い」というイメージがあったから、その種別名を考えたのだと思うのだが、京浜急行好きの私からすると、当時、その列車種別名をつけた事にもの凄い抵抗を感じた。「快速特急は京急だけのオリジナルであり、同じ列車名を名乗ってはならない」という我侭な考えがあり、改称するよう要請したのだが失敗に終わった。
 確か、地下区間の通過運転は快速特急と急行特急の2種だったで、そこを走る快速特急には、副称を与える事で妥結した記憶がある。快速特急「ハイパークイック」とした。急行特急にも「スウィフトドライブ」という副称を与えた。
 やがて、そのフリーランスは、ダイヤグラムという知識をまた別の鉄道好きな人間から得た。そして実際に存在する場所を通る路線として進化する。とは言え、その書き方もろくに解っていなかったので、完成したのは、“windia”を入手するまで待たなければならなかったが、ちょこちょこダイヤグラムを作ってはいた。
 道路マップを買い、好きなところに駅を作り、路線を引いていく中でも、急行特急は存在していた。京浜急行の快速特急にならい、クロスシート(転換クロスで設計)の2つドア車両の20m車両とし、一番速い種別として君臨していた。この列車種別の英語表記をどうするか、という事も当時、課題としてあった。一番初めは“Express Limited Express”としていたが、これはまずいだろう、という意見から“Swift Prompt Express”とした。「速い」という意味を持つ英単語を拾ったのだが、“prompt”は「早い」であって「速いではない」という事が後に解った事と共に、無理に英単語で置き換えなくてもと言う事になり、“KYUKO TOKKYU”という事で決着を見た。
 このフリーランスは、憧れの「都営浅草線」へ乗り入れる事に発展する。西馬込から乗り入れるぞ!という事になった。
 当時、私にダイヤグラムの知識を教えてくれた人間が、西馬込までの路線を作り、私がその路線の途中駅から乗り入れるという形を取った。しかし、リアリティの追求のし過ぎの弊害から、結局、長続きはしなかった。私が、乗り入れすることを断り、下火となった。理由は、「列車使用料のバランスをどうするか」、「乗り入れ区間を西馬込-押上または西馬込-泉岳寺(この運用につけない場合は、その仲間がつくった終着駅五反田駅へ流れる事になり、そこは1つのターミナル駅だった)に限定されてしまった事」、「遮光幕の問題(地下区間でも遮光幕を開けて運転して欲しいという私の我侭があった)」にある。列車使用料なんて、どうやっても解決出来ない問題だったのだが、当時はこだわりと1つとなっていた。また、京浜急行の羽田空港駅がその当時開業され、浅草線のダイヤが旧来のものから変わってしまった事があり、乗り入れ区間が限定化されたのは致し方無いにしても、そんな風にしては乗り入れする意味が無い、と私は思ったのと同時に自分の路線の車両が浅草線へ行かない事も不満があった。一時期、私所属の車両は、京成線へ通勤特急として乗り入れという事も容認されていたのだが、結局、駄目になってしまった。
 叶わず終いの話ではあったが、「相互乗り入れ」に関する知識や「浅草線ファミリーによりのめり込むきっかけ」を与えてくれた事になり、全てが無駄になった訳ではない。
 浅草乗り入れで挫折した後、一番初めにフリーランスを始めた仲間と都営線乗り入れを考えた仲間と私の3つで相互乗り入れしようという話になった。しかし、私達3人は仲が良かった訳ではなく、個性のぶつかり合いもあり、その仲は最悪だった。それをまとめようという冒険的な手段を私は買って出た。新たに私の方で、池袋へ向かう路線を設定し、その路線で乗り入れるという事になっていた。
 この乗り入れは、日比谷線と東横線の乗り入れの様に、18Mと20M車両が混在するという形だった。と言うのは、浅草線乗入れを企画した仲間は、地下鉄乗り入れの為に、18Mの車両で行かないといけなかったからである。軌間は、私が妥協して標準軌とした。これも以前に書いたが、JR京葉線の東京駅から乗り入れるという計画を立てていた為、狭軌にせざるを得なかったのである。そして、狭軌でも高速運転が可能である事が解ったので、そうしていたのもある。
 この乗り入れでは、「急行特急」に「通勤急行特急」も存在し、自社以外の車両も担当する事になっていた。特筆すべき点は、有料特急電車が乗り入れていたと言う事である。18Mの車両を持つ仲間の路線へお互いにそれ専用の車両を作って、乗り入れた。列車使用料という考えはこの時、曖昧にしていた。
 だが、これも、もともと個性がぶつかり合って折り合いがつかなかった事に耐えられなくなり、乗入れを中止し路線も抹消した。平日だけであったが、ダイヤも完成させたと言うはもったいなかったけれど、我慢が出来なかったのである。
 それを期に、フリーランスの熱は冷め、現在に至っているが、「急行特急」という種別名は大切にしたいという思いは今も残っているし、いろいろ楽しい側面があったのは言うまでもない。しかし、同時に思い出したくない事も一杯詰まっているのは事実である。

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つよんじゅん様コメントありがとうございます。

2007年08月05日 14時29分12秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59

 コメントありがとう御座います。また、貴重なご意見ありがとう御座います。以後、文字サイズは統一し、色は見やすいものを選ばさせていただきます。
 ご依頼のリンクの件、確かに承りまして、リンクを張らさせて頂きました。気が弱いので大っぴろに公言する事が出来ずに居ました。今後とも宜しくお願い致します。

 

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