今日、所用で郵便局へ行った時である。
1人の客人と共に、この猫が入ってきた。当初、入ってきた客人のペットかと思ったのだが、実はそうではなかった。周囲の客は、突然の事ではあったが、雰囲気は和んでいた。
一瞬、黒猫かと思ったのだが、よ~く見てみると、白い文様があり、ちゃっかり脚のところにも白色があり、靴下を履いたようだ…と周囲の客人は言っていた。うまい表現である。『長靴をはいた猫』という作品があるが、こちらは、『靴下をはいた猫』と言えそうである。
『耳をすませば』に登場する猫にもある意味近いが、あっちは「電車」なので、隔たりは大きそうである。
その後、この猫がどうなったのかは解らないが、珍しいというか面白かったので、一発、携帯で撮影した次第。
土日で突発的企画により出かけたが、あっという間に終わり、ありふれた日常に戻っている。気がつけば8月も残り僅かで…という言葉は、まだ飲み込んではおきたいが、事実としてそこにあることも「認識」しなければならない。
「ありふれた日常」というのは、映画鑑賞や音楽ライヴ鑑賞、旅行等をする時間よりも「はるかに長い」というのは言うまでもない。人一人一人の生活の基盤であると言っても良い。そんな事に気付いたのは、今リンクを貼らせて頂いている方々にお会いしてからである。
「オフ会」を通じて、生の息遣いによるコミュニケーションが取れ、趣味の話で盛り上がれるのは、本当に素晴らしいものである。特に、友人が少ない私にとっては、本当に嬉しい一時である。だが、この「オフ会」も言うまでもなく「ありふれた日常」よりかは本当に短いものである。
「つながっていたい」「つなぎ続けて行きたい」という思いが、今でも強い。それをするにはどうするか…という事を考えた時に、気付いたというか思いついたのが、この「ありふれた日常」であった。この中でも、繋がっていたいという思いが生まれたのである。そこで、かなりこのような話をした事があった。単に、「オフ会」という場だけではなく、折角、通信手段が発達し、連絡はとりやすい環境にあるのだから、有効活用をしようという事に気付かされた。それをしないと、いつかは「離れていってしまう」のではないか…と思ったのである。そうなれば、「オフ会」も何れはなくなってしまうという危惧もある。万物が常に同じ場所に居つづけると言う事は不可能かもしれないが、可能な限り、行き着くところまで行くという方針が必要だと思っている。非常に大げさな話ではあるけれど…。
とは言え、自分自身の「ありふれた日常」は、そう大したものでもなく、同じ事の繰り返しと言えばそうである。故に、「非日常」を望むのだと思う。けれど、「ありふれた日常」なしに「非日常」は語れない上に、それよりも長いという事が重要であるが、案外、見捨てられがちなものである。
「ありふれた日常」というのは、映画鑑賞や音楽ライヴ鑑賞、旅行等をする時間よりも「はるかに長い」というのは言うまでもない。人一人一人の生活の基盤であると言っても良い。そんな事に気付いたのは、今リンクを貼らせて頂いている方々にお会いしてからである。
「オフ会」を通じて、生の息遣いによるコミュニケーションが取れ、趣味の話で盛り上がれるのは、本当に素晴らしいものである。特に、友人が少ない私にとっては、本当に嬉しい一時である。だが、この「オフ会」も言うまでもなく「ありふれた日常」よりかは本当に短いものである。
「つながっていたい」「つなぎ続けて行きたい」という思いが、今でも強い。それをするにはどうするか…という事を考えた時に、気付いたというか思いついたのが、この「ありふれた日常」であった。この中でも、繋がっていたいという思いが生まれたのである。そこで、かなりこのような話をした事があった。単に、「オフ会」という場だけではなく、折角、通信手段が発達し、連絡はとりやすい環境にあるのだから、有効活用をしようという事に気付かされた。それをしないと、いつかは「離れていってしまう」のではないか…と思ったのである。そうなれば、「オフ会」も何れはなくなってしまうという危惧もある。万物が常に同じ場所に居つづけると言う事は不可能かもしれないが、可能な限り、行き着くところまで行くという方針が必要だと思っている。非常に大げさな話ではあるけれど…。
とは言え、自分自身の「ありふれた日常」は、そう大したものでもなく、同じ事の繰り返しと言えばそうである。故に、「非日常」を望むのだと思う。けれど、「ありふれた日常」なしに「非日常」は語れない上に、それよりも長いという事が重要であるが、案外、見捨てられがちなものである。
つよんじゅん様、コメントありがとう御座います。1日遅れのレスポンス、すみません。
つよんじゅん様のレポート(http://blog.duogate.jp/tsuyoshiexp/?p=0&disp=my_entl_p&MP=897899 等) は、毎回濃密な物であることは、本当に凄いなと思います。
本当は、「サークルT」メンバーの方々と一緒に行けたら一番良かったと思います。また、遠くへ行くOFF会やミニOFF会をしたく思っておりますので、今後とも宜しくお願い致します。次は10月でしたか?鉄道博物館@埼玉県に行こうと言うもの…。
つよんじゅん様のレポート(http://blog.duogate.jp/tsuyoshiexp/?p=0&disp=my_entl_p&MP=897899 等) は、毎回濃密な物であることは、本当に凄いなと思います。
本当は、「サークルT」メンバーの方々と一緒に行けたら一番良かったと思います。また、遠くへ行くOFF会やミニOFF会をしたく思っておりますので、今後とも宜しくお願い致します。次は10月でしたか?鉄道博物館@埼玉県に行こうと言うもの…。
ネガティヴで何が悪い!悲観的で何が悪い!!と力んでみたくなる。いつから世の中、ネガティヴと悲観的が「悪」と決めたのだろうか?「誰もそうは思っていなくても誰かが決めた」と言ういつかの行を思い出す私である。
もっと、馬鹿になれよ、そう言われた日を思い出す。
ギャンブル好き女好きフェミニストだったな、過ぎ去りしあの日のあの人を思い出す。ギャンブルやるのに悲観的だったりネガティヴじゃ出来ねえよな、と思う。
勝負事で勝つことありきの体育会系的「ポジティヴ思考」は嫌いである。勝負事が要なのがそんな世界なので、敗けを解ってもホンチャンに挑まなくてはならない瞬間はあって。とは言えそれは、単純に物語の様に綺麗に物事が流れていくかと言われればそうではなく、実際は泥臭いんだろうな、と思う。精神的な苦痛を与えるものさえありそうなので、余計に嫌なのだ。
「体育会系的思考」に「体育会系的な人間」を意識して「嫌い」になったのは、7年前の事。7年前のどん底期終わって、しばらくはそんな感情は忘れていたのだが、ここ2から3年で再びそんな気持ちが再発し始めた。くたばれ体育会系的社会人、と叫びたくなるくらいに嫌な日常があったのも事実で。私の様な人間は、そんな人間の餌になるしかなく、最後は締め出されて終わる――この敗北もそれが1枚噛んでいる事を否とは言いたくない。
もっと、馬鹿になれよ、そう言われた日を思い出す。
ギャンブル好き女好きフェミニストだったな、過ぎ去りしあの日のあの人を思い出す。ギャンブルやるのに悲観的だったりネガティヴじゃ出来ねえよな、と思う。
勝負事で勝つことありきの体育会系的「ポジティヴ思考」は嫌いである。勝負事が要なのがそんな世界なので、敗けを解ってもホンチャンに挑まなくてはならない瞬間はあって。とは言えそれは、単純に物語の様に綺麗に物事が流れていくかと言われればそうではなく、実際は泥臭いんだろうな、と思う。精神的な苦痛を与えるものさえありそうなので、余計に嫌なのだ。
「体育会系的思考」に「体育会系的な人間」を意識して「嫌い」になったのは、7年前の事。7年前のどん底期終わって、しばらくはそんな感情は忘れていたのだが、ここ2から3年で再びそんな気持ちが再発し始めた。くたばれ体育会系的社会人、と叫びたくなるくらいに嫌な日常があったのも事実で。私の様な人間は、そんな人間の餌になるしかなく、最後は締め出されて終わる――この敗北もそれが1枚噛んでいる事を否とは言いたくない。