マニアックなというか妙な曲目に、唖然とされてしまったかもしれませんが、
カラオケの機種に入っている場合に歌う曲の定番はそんな感じです。
今後とも宜しくお願い致します。
丁度1年前の今日、時間であって時間でないものを指す、時計が0になった気がした。理由ははっきりとはしない。だが、丁度こう0時00分になり、1日が終わるようなそんな感覚におそわれた。
自分の干支の年…という区切りの時でも無いのに妙な話である。
話が行き成り変わるが、私はトンネルをくぐるのが好きである。鉄道でも道路でも何でも良いのだが、長いトンネルを入り口から出口へ向かって抜ける事のが良いのだ。では、地下鉄好きか?と言われると嫌いではないが、そのトンネルではなく、山や住宅地の地下を単に貫通するのが好きだ。途中に駅があるのはちょっと自分の中では部類が違ってくる。地下駅を止まらずに減速無く通り過ぎる電車に乗るのは嫌いではないけれど…。
何も見えず、ただトンネル内を照らす灯りしか見えないし、コンクリートに刻まれた細い線やら傷に、列車待避用の穴、信号機しかなく、面白くも何もないのだが…。新幹線では長大なトンネルが存在するが、あまりそういうのは好きではない。
通り抜けた先を喩えるならば、未来という事になるが、私はそれをただ見てみたいという願望があるからなのか、あるいは、そこへ行ってみたいという欲求があるからなのかは解らないが、トンネル越えは好きだ。
そんな1つの長いトンネルから抜け出た様な感じと今回話した時計の針が0を指した(アナログ式では12の所に長針と短針が重なる)様な感じとはイコールである。しかし、だからと言って、自分自身の存在が劇的に変わった訳でも、ほんの少しでも変わった訳でもない。どんなに色を塗り替えても、自分自身は自分自身であり、変わることは無い。変わっていたら、こんな変な話はしない…と思う。
新たな時が来たと感じてから1周目。今おかれている状況は、昨年とは違う。同じであっては欲しかったが、少しつづ生じた亀裂の中に落ちてしまい、這い上がれないままで居る。一般的に、何かが終わることを、良い意味を込めて「卒業」と呼ぶけれど、私はどうも悪い方向に転がってしまったようだし、先述の様に自分自身の価値観とか感情とか考え方とかは何も変わっては居ない。
そんな0時00分を感じるより前に、レイによって時計にまつわる1つのエッセイを書いていたので、紹介したい。
題名:柱時計の前で
灰色の壁に柱時計がかかっている。いや、置いてあると言った方が正しいのだろうか?黄金色の振り子が(正確な名称は不明)右へ左へと動いている。その時計の前でじっと文字盤と振子を見ている。
時間は動いている。けれど、自分がいる周囲は静まりかえっていて、時間なんて動いていない様に思える。だからかどうかは知らないが、ひどく落ち着く。現実社会の時間の流れは一定の筈が、時には早く、時には遅く感じられる。それは、我ままだからなのか?
こうして時計の前にいると、このままずっとここに居たいと思う。何もかもを忘れ何も考える何もせず居られるから。ただ、時間だけが流れて行く。それは自分の命の時間になる。そんな気がする。ならば、私は何時何分までそこではっきりと意識を持って居られるだろうか?いつまで、この心臓は動いているのだろうか、そんな事もふと思ってみる。意味はない。
灰色の壁。灰色1色に塗られているのか、始めからこうなのかは解らない壁。時として、黒くも白くも見えるぼんやりとした色、灰色。手で触れてみてもただ、冷たい感触しかなく、映画の世界みたいに金色に光って何かが起こる訳でもない。そんな儚い夢を時として抱いている自分は馬鹿なのだろうか?それとも、現実から逃げたいだけなのか。逃げて行きついた先に何があるのかも解らずに行きたいと思っている自分。どこまで行っても現実からは逃げられない事を知ってもなおどこかへ、理想のどこかへ行きたいと思う気持ち。
時計は動いている。カチカチと音を立てて、黄色の振り子を左右に揺らして。文字盤と振子、そして壁を見ている自分。あとどれくらいこうして居られるだろうか、と思い悩む自分。過ぎて行く時間の中で、価値ある事がどれだけ出来たろうと思う自分。
つまるところ、右にも左にも前にも横にも動けない現実のはざまで迷いつづけている。灰色の壁と柱時計を見つめながら。この次、自分はどこへ行くべきなのか、考えて考えないままに。
確か、このエッセイを書くインスピレーションがあった時、とある曲のメロディーがあった。どことなく、時を刻む音のようなものをかもし出すような、そんなものがあった様にも思うのと同時に、そんな時計の前に居る夢を見てみたいと思ったような気もしている。あるいは、何かのマンガのワンシーンで見たようなものを、真似てみようという想いもあったのかも知れない。
あえて、そんな何を基準にして、0時00分なのか解らない感情を抱いたあの日から1年であるという事だけが、事実としてそこにあるだけ。しかし、その事が何か重要な意味をもっている様にも思うが、答えは出ていないし、見つかっても居ない…。
このブログで一番多いジャンルである、この“Mind Feeling”。心で感じた事を書く、というのを英語表現したものであるのは言う間もない(もっとも、使い方があっているかどうかは定かでない)。
いつかに、A5版のルーズリーフにエッセイ的なものを書いている話をしたが、そこでもこの“Mind Feeling”は使われている。あえて、部門分けをしようとした時、他に思いつく言葉が無くて、使ったのだ。
察しがつくかも知れないが、実は、ラジオの深夜放送の影響で、シンガーソングライターの真似事を始めた本当に初期の頃、この“Mind Feeling”という題名の曲を作った記憶があるのだが、実際には作詞だけで終わり、メロディーはつけられなかったように思う。楽譜をつかって、とりあえず曲を完成させていくのだが、一気に最後まで作らなかった事としっかりとリズム感を身につけられなかった為である。年齢を経て、少しは作れるようになり、とりあえず最後まで完成はさせても、再現が出来ないと言うことがままあった。故に、自分にはあまり向いていない作業なのかな…とは思う。
話を基に戻すが、この“Mind Feeling”は、あくまでも部門名であり、1つの話毎の題名ではない。そして、こうして何とはなしに感じた事を形にしていくと、題名がつく場合とつかない場合が出て来るし、つけるのが面倒という事もある。そんな時に、この言葉を用い、あとは日付をつけてそれで済ますという事をしている。基のエッセイの中も、タイトルがついていないものもあり、それはそれでまとめている。
先日、『海が青を欲するように』というエッセイを紹介したが、実はこれも、この“Mind Feeling”に該当する。たまたま、季節に似合うものがないか…と探していた時、見つかったと言うか覚えていたので、掲載してみた。私の悪い癖で、一度書いた物を見直したり、読み直したりしないので、後々になって再び見るとき、誤字脱字(特に脱字が多いように思う)が多い。ペン書きをしているので、修正液で消した後、文字を書き忘れているというのも散見され、自分の中途半端な性格さがよく現れている。そんな中途半端を題材にして、『いとおしい中途半端』(これも何かのタイトルの一部を切り取った様にも思う)という物もあった。書いていた当時は、高校の時だったと思うのだが、それでも今と同じような事を思っている成長しない自分自身をさらけ出す事になるので、少々掲載するのには勇気が要るのだが、ここまで来ているので、紹介したいと思う。それをもって、今回の話を閉じることとする。
『いとおしい中途半端』 (一部、修正有り)
私には、100%という数字や言葉はない。何をやるにしても、中途半端。それは誰のせいでもない。
100%を追いかけると、必ずどこかで何かしらがかけて行き、やっぱりいきつくさきは妙な数字になる。何故なのか。
私はそんな自分が嫌いである。けれど、どうにもこうにもならない理想を追いかけたとしても、それは無理な話だと言う事が解った。自分に似合っているものは、中途半端という四文字。
完全や80%、90%、100%と言った数字は私の味方にはなってくれない。そんな事に憎しみを覚えたとて、どうにもならない。逆にそうでなくてはいけない。私は中途半端をイトオシクそしてうまく味方につけて行かなくてはいけないのだと言う事を知った。そして、中途半端と言うものを選んでいって、うまく生きていくしかない。そんな生き方はないかも知れない。けれど選択の余地はないのだ。
何もかもが、中途半端と言う事に誰しもがいい顔をしないだろう。けどそれは仕方のない事で、自分は自分であるって事を認めなくてはいけない。それはすごく力の要る事だけど。
他人を羨み、中途半端に嘆く…その事にはやく諦めをつけなくてはいけない。心の中にいる中途半端を否定する誰かを押し潰して。そんな朝が早く事を願ってやまない。