ひねもすのたりにて

阿蘇に過ごす日々は良きかな。
旅の空の下にて過ごす日々もまた良きかな。

熊本震災 阿蘇の我が家と私の状況 その5

2016年05月01日 | 日記(?)
5月1日

阿蘇は、昨夜から今の時間まで一度も揺れることなく、
穏やかに睡眠を取ることが出来ました。

一昨日の湯布院での震度5強はインパクトが大きくて、
またぞろあの規模の余震が来たら、果たしてその後、地震の恐怖に耐えられるだろうか、
そう思えるほどでした。

ゆっくりではありますが、一度平穏に戻りかけたベクトルが、
再び元の状態に戻り、また一から出発という、
賽の河原に石を積むような作業が、自分の気持ちの中で折り合いがつくのか。

さて、今日は益城町の安永という地域に住む叔母の家を訪ねていきました。
家の倒壊も逃れ、家族3人何とか無事で過ごしているという話を聞いたものの、
テレビで見た益城町の惨状を考えると、どうしても一度は訪ねてみなければと思い立ったわけです。

まだ水が出ないというので、飲料水と上さんが作った弁当を持って出かけました。
大津町から第2空港線を突っ切って、御船へと続く道は、遙か手前から渋滞しています。
益城町役場に抜ける道に出ようと途中で右折しましたが、
第2空港線から役場へ抜ける道も大渋滞です。

仕方なくその道も突っ切ってなおも進むと、だんだん被害が大きい地域に来ます。
傾いた家や壊れたブロック、川沿いのガードレールは河側に落ち込んでいます。
そうでなくても狭い道を慎重に進んで、熊本から益城への本道に出ますが、ここも渋滞で車は進みません。
左折をあきらめて右折し、遠回りではあるけど、秋津川沿いに、本道と平行した道を行って、
何とか叔母の家に到着しました。

その途中、倒壊した家がいたるところにあり、
道はでこぼこは勿論、既にアスファルトが撤去され、砂利道が半数でした。

叔母の家は、古い母屋と10年ほど前に建てた離れ家があって、
母屋は悲惨な状況でした。
障子や扉は捻れて柱と桟や壁には大きな亀裂があります。
床は単に傾いているのではなく、でこぼこした感じで盛り上がっているところもあります。

しかし、離れの方にはほとんど被害がなく、そこにトイレも台所もあるので、
何とか生活することは出来るということでした。
まだ水が出ないので、同級の従兄弟が近くの湧き水を汲みに行くのが日課だそうです。
叔母は元気な様子で、家族の写真や私の母からの手紙はちゃんと持ってきているからとしきりに私に言って、
少し記憶が曖昧な中でも、私の顔はちゃんと認識してくれ、無事が何よりでした。

その後の約束があったので、30分ほど話して家を出ました。
益城熊本線の本道に出るまでの安永団地の細い道の両側には、倒壊した家がいくつもあって、
道路は狭くて離合も出来ない様子でした。
あまりの惨状に言葉もなく、妻君の「悲しいねぇ。」という言葉に涙ぐみそうになりました。

反対車線は、多分10キロにも及ぶ渋滞でしたが、帰りはスムーズに家路につきました。

昨日までは普通にそこにあった家が、今朝には倒壊して無残な姿を晒している。
その悔しさや悲しみはいかばかりのものか。
突然に奪われた昨日までの日常は、もう決して戻ることはなく、
再建は出来ても、そこには昨日までの日常の続きはないのです。

友人に名取市の閖上で津波に家をさらわれた人がいます。
その友人は別な土地に家を建てましたが、そこには数十年と慣れ親しんだ人もなく、
津波に遭うまでの日常とはかけ離れたものでしょう。
今日、震災の惨状を目の当たりにして、ふとその友人の状況を思い浮かべてしまいました。

自然災害だから、誰に苦情を言うことも出来ない。
それは分かっているのだけれど、何で熊本なのか、何で自分の所なのか、
恨み辛みを言いたくなるではありませんか。

今日は、熊本地方と阿蘇地方の震度は1~2で推移しています。
間隔はほぼ1時間に1回程度でしょうか。
阿蘇地方は、そのうち2回程度です。
震度1や2ではもうそれほど感じなくなっている自分が、ちょっと怖い気もします。

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