ひねもすのたりにて

阿蘇に過ごす日々は良きかな。
旅の空の下にて過ごす日々もまた良きかな。

カンパラへの遙かな道

2010年03月09日 | 旅の空の下
1971年1月、アフリカのウガンダでクーデターをおこし、
オボテ大統領を追放したアミンは、その後、国民を30万人以上虐殺したと言われ、
軍事独裁を敷き、黒いヒトラーなどと称された。
クーデター当初は国内外で歓迎されたらしいが、
その後の反対派の粛清などの言動が、海外からの支援を遠ざけたらしい。

当時、私は隣国のケニヤにいて、ウガンダに行く準備をしていた。
そのクーデターから約10日ほど後、ケニヤ・ウガンダの国境に行ったが入国できず、
クーデターから約一月後に再度入国を試みた。

国境をウガンダ側に入ったのが、既に夕方の4時過ぎで、
その頃、全国に敷かれた戒厳令の外出禁止時刻が午後6時。
早く宿を決めて入らないととんでもないことになる。
私は焦って、国境の村の、最初に目についた木賃宿に入ったのが5時過ぎだった。

一段落して、宿の窓から通りを眺めていると、
軍隊がジープに小銃を乗せてパトロールしている。
間に合ってよかった。物々しい通りを見ながら心からそう思った。

翌朝、カンパラに向かって出立したが、バスはあまり動いていず、
乗り合いの乗用車やワゴン車で、短い距離を乗り継いで行く。
その道すがら、至る所に兵士がいて、検問をしている。

若い兵士が多く、銃を向けて車を止めると、乗客を全て降ろし、
外国人の私はそのたびにパスポートを提示した。
何かをきっかけに、この兵士たちが我々に引き金を引いたらどうしよう。
銃を持つ兵士を目の前にして、なかなかその恐怖からは逃げられなかった。

その繰り返しの中で、やっとの事でカンパラに着いたが、
ウガンダの首都で何を見たか、そういった印象も含めてほとんど記憶にない。
数え切れない検問の路程に強いられた緊張の反動だったのだろうか。

その後、クーデターには英国が影で糸を引いていたという話もあり、
植民地として支配されたアフリカの悲劇が、この国にも及んでいたのかという念を抱いたものだ。
人が人を支配するという愚行から、人間は未だに抜け出せずにいる。
人間は決して賢者という境地に達することができない生き物なのだろう。

最後にもう一つ、岡村孝子と加藤晴子のデュオ、「あみん」の名は、
さだまさしを経て、アミンの名が巡り巡って命名されたものだということは最近知った。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿