昨日熊日新聞に江川紹子さんのコラムがあった。
それによると、四川大地震に関して、ネット上で聞くに堪えないような書き込みがあっているようだ。
その直前、チベット問題への中国の対応に不快感を覚えた人は多く、
「罰が当たったんだ」といった意見が出るのは当然予想されたことだった。
現実に、ダライ・ラマの支援者でもあるアメリカの女優、シャロン・ストーンが、
中国当局のチベット問題への対応に対する「業(カルマ)ではないか」と発言して物議を醸している。
私もこの地震のニュースを耳にしたとき、一瞬そう思わないでもなかった。
しかし、テレビや新聞が伝える惨状を知るにつけ、
中国国民の苦難を見るにつけ、
そのような感情は吹き飛んでしまった。
いつ復興ができるのだろうか、いや復興そのものがかなうのだろうかという危惧さえ抱かせるような惨状の中で、
それでも生きていかねばならない人々の、絶望的な日々を思うとき、
思い遣りのかけらもないような発言がどうしてできるのだろう。
餃子事件や、チベット問題等、最近の中国政府の様々な問題に対する応対には不快感を覚えることがある。
聖火問題での異様な愛国心発揚にも違和感を覚えずにはいられない。
そういった多くのことが日本人に、嫌中国感を植え付けているのかなとも思う。
しかし、冷静になって考えてみようではないか。
中国政府が進めてきた教育や政策、メディアを使った世論の誘導が原因になっていないか、
日本にもそういう不幸な時代はなかったか、と振り返って見ることも大事である。
私達と中国人には、ある重要な共通点がある。
それは、同じ地球上に生を受けた人間であるということだ。
同じ国民ではないけど、同じ人間として、苦難の生を生きている人に手を差しのばすとき、
その手を受けた人々もまた、同じ人間として、別の苦難の人生を生きる人々に手を差し伸べるのではないか、
こんな考え方は、多分他愛ない理想に過ぎないだろう。
しかし、そこからしかチベット問題や各地の紛争は解決しないという気がする。
付け加えて、ミャンマーのサイクロン被害のこと。
軍事政権に翻弄され、生命の危険にさらされている人々。
私が旅行したとき、あんなに親切に接してくれた人々が、
自国民の困窮を一顧だにせず、
ただ政権維持に汲々としてる軍事政権によって苦しめられている様を想像するとき、
思わず、声を漏らしてしまうほどの怒りに駆られる。
人が不幸にいるとき、私達は決して礫を投げてはならない。
旅行をすれば必ずそこの国民と出会い、話し、親しくなる。
自分が身をもって接した人達が、苦難の生を生きているとき、
「負けないで」という自分の声が届くことを願うしか、今のわたしにはできないのだ。
それによると、四川大地震に関して、ネット上で聞くに堪えないような書き込みがあっているようだ。
その直前、チベット問題への中国の対応に不快感を覚えた人は多く、
「罰が当たったんだ」といった意見が出るのは当然予想されたことだった。
現実に、ダライ・ラマの支援者でもあるアメリカの女優、シャロン・ストーンが、
中国当局のチベット問題への対応に対する「業(カルマ)ではないか」と発言して物議を醸している。
私もこの地震のニュースを耳にしたとき、一瞬そう思わないでもなかった。
しかし、テレビや新聞が伝える惨状を知るにつけ、
中国国民の苦難を見るにつけ、
そのような感情は吹き飛んでしまった。
いつ復興ができるのだろうか、いや復興そのものがかなうのだろうかという危惧さえ抱かせるような惨状の中で、
それでも生きていかねばならない人々の、絶望的な日々を思うとき、
思い遣りのかけらもないような発言がどうしてできるのだろう。
餃子事件や、チベット問題等、最近の中国政府の様々な問題に対する応対には不快感を覚えることがある。
聖火問題での異様な愛国心発揚にも違和感を覚えずにはいられない。
そういった多くのことが日本人に、嫌中国感を植え付けているのかなとも思う。
しかし、冷静になって考えてみようではないか。
中国政府が進めてきた教育や政策、メディアを使った世論の誘導が原因になっていないか、
日本にもそういう不幸な時代はなかったか、と振り返って見ることも大事である。
私達と中国人には、ある重要な共通点がある。
それは、同じ地球上に生を受けた人間であるということだ。
同じ国民ではないけど、同じ人間として、苦難の生を生きている人に手を差しのばすとき、
その手を受けた人々もまた、同じ人間として、別の苦難の人生を生きる人々に手を差し伸べるのではないか、
こんな考え方は、多分他愛ない理想に過ぎないだろう。
しかし、そこからしかチベット問題や各地の紛争は解決しないという気がする。
付け加えて、ミャンマーのサイクロン被害のこと。
軍事政権に翻弄され、生命の危険にさらされている人々。
私が旅行したとき、あんなに親切に接してくれた人々が、
自国民の困窮を一顧だにせず、
ただ政権維持に汲々としてる軍事政権によって苦しめられている様を想像するとき、
思わず、声を漏らしてしまうほどの怒りに駆られる。
人が不幸にいるとき、私達は決して礫を投げてはならない。
旅行をすれば必ずそこの国民と出会い、話し、親しくなる。
自分が身をもって接した人達が、苦難の生を生きているとき、
「負けないで」という自分の声が届くことを願うしか、今のわたしにはできないのだ。
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