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日本の論点 上杉隆

2011年11月12日 | 身辺雑記
日本の論点に上杉隆氏が書いていたので引用します。

大メディアの報道を鵜呑みにしている皆様は、莫迦が付くくらい素直なんですね。
しかし、大本営発表で悲惨な目にあった過去を忘れてはならないでしょう。
多角的な視野と、少し考える力を養いましょうよ。
そのために、以下の記事は参考になると思います。


「報道は世論を誘導しているか」
マスコミが世論を誘導している事実に、国民は気がつき始めた

「役所の広報に成り下がった」日本のメディア
 多くの日本人はマスコミに洗脳されているといったらきっと驚くに違いない。いや、そんなことがあるはずがない、と怒る人が大半かもしれない。
 だが、それは空想でも、妄想でもなんでもない。世界中のジャーナリストがそう認めている現実のことなのである。
 この半世紀の間というもの、日本の報道機関は、「記者クラブ」という世界でも類をみない便利なメディアシステムを使って、自らに都合のよい「世論」を広めてきた。しかも、それは、ほとんど当人たちの無自覚のうちにおこなわれるものだから、極めて始末の悪いことになっているのである。
 記者クラブとは新聞やテレビなど一部のメディアが独占的に官僚機構などからの情報を得ることで、同業他社を排除し、既得権益を貪ってきたカルテルともいうべきシステムである。本来監視の対象である公的機関と癒着し、一体化することで、単調で、無批判な情報を世間に流布させる役割を担ってしまっている。
 日本の報道の問題の根源はすべてここに潜んでいるといっても過言ではない。
 そもそも、記者クラブはその特性上、官僚機構に逆らいにくい構図になっている。
 たとえば、かりに役人たちの意図するものと違う情報を出したとしたらどうなるのか。簡単にいえば、その記者は「出入り禁止」、すなわち、情報ルートを断たれるという宿命が待っている。横並び意識の高い記者クラブでは、メディアが権力と戦うことはほとんどない。唯々諾々とその「命令」に従い、結果、記者クラブ制度は維持されることになる。
 逆にいえば、権力監視というジャーナリズムに課された最低限の役割を放棄して、権力と共生したほうが、ずっと仕事をしやすいのである。それが日本特有の記者クラブシステムの肝だ。
 このシステムを世界はどう見ているか。かつて米紙で働いていた時代に聞いた海外特派員の言葉を借りれば、「日本のメディアは、役所の広報に成り下がっている」ということになる。
 これは特殊な意見ではない。FCCJ(日本外国特派員協会)の総意といっても差し支えないであろう。
 つまり、海外の報道機関は、日本のメディアを同業者とみなしていないのだ。記者クラブ制度という世界で唯一のアンフェアな制度を維持している日本のメディアをいっさい信じていない。それゆえに、官僚機構と同じものだと見ている。

「検察は絶対正義」といってきたのは報道機関
 こうした評価は、日本の国民にはいっさい知らされていない。それも当然だ。記者クラブメディアが自らの恥部を報じることなど決してないからだ。
 事実と向き合うことよりも、歪んだ面子と既得権益を優先する。それが日本の報道機関の特徴であり、海外から受けている真の評価なのである。
 中国籍で初のノーベル賞受賞者(平和賞)となった劉暁波氏のことを、中国メディアが伝えない、と日本の報道機関は批判している。
 だが、それはまさしく日本の報道機関にこそ当てはまることだ。中国と同じように見られていることを日本人はまったく知らないだろう。
 皇室、記者クラブ、ヤクザ、機密費など――。
 都合の悪いニュースをことごとく封印し、この世に存在しないものだとして黙殺してきたのが日本の報道機関なのである。
 それが半世紀以上もの長い間続いてきたので、日本人はそうした「洗脳」にすっかり慣れてしまったというわけである。
 だが、そうした「洗脳」も少しずつではあるが解け始めているようだ。
 二〇一〇年(平成二二年)九月、大阪地検特捜部の検事らがあいついで逮捕された事件は、「検察は絶対正義である」という戦後日本人が持っていた歪んだ認識を改めさせる好機となったようだ。
 そもそも、起訴後の有罪率が九九パーセントを超える捜査機関が、この多様化された現代社会において存在していることが不自然だ。
 仮にそれが事実であるならば、そもそも裁判所は不要であるということになる。検察といえどもしょせん、公務員であり、人間の集まりである。たんなる役人の集合体に無謬主義は通用しないのである。
 そして、この「検察は絶対正義だ」という誤った認識を広めたのは、他でもない日本の報道機関である。
 やまりん事件、ライブドア事件、陸山会事件など、日本人は一度でも検察の捜査対象になった「容疑者」を「犯罪者」扱いすることに慣れてしまっている。
 だが、鈴木宗男氏、堀江貴文氏、小沢一郎氏など「犯罪者」たちの個別の被疑事実をそれぞれ読み返してみれば、それが「世論」のいう「犯罪」とはほど遠いことがわかるだろう。むしろ、この三事案だけでも、完全無罪かと思えるものばかりである。
 どれも検察の捜査対象となった事案だが、そうしたことを広めるのは報道の仕事である。そして、推定無罪の原則を無視してそれが一定の世論を形成している事実は否めない。
 つまり、報道が、方向性をもって世論に訴えかけることができれば、「悪人」をいとも簡単に作り上げることができるのだ。

厚労省局長を「犯罪者」から一転「被害者」に
いっぽうで「正義」もまた作ることができる。日本では検察官、検事はつねに正しく、捜査のプロなのだから絶対に間違いを犯さないという前提によって記事が作られている。
 郵便割引不正事件で、最初、厚生労働省の村木厚子局長が逮捕されたとき、その逮捕を疑問視するテレビ・新聞が皆無であったことが何よりの証拠だ。
 むしろ疑問視するどころか、一面トップという大きな扱いで村木氏を「犯罪者」扱いしてきたのが日本の新聞・テレビである。
 ところが、その村木氏の無実であることが濃厚であることがわかると、一転、そうした批判記事は鳴りを潜め、微妙に論を修正しながら、「無実」の方向に記事の舵を切り出したのだ。
 そして、検事によるフロッピーディスクの改竄などで「冤罪」が確定的になると、今度は村木氏を「犯罪者」から「被害者」に切り替えて、報道内容を完全修正したのである。
 その間、自らの報道を訂正し、謝罪した報道機関は皆無であった。
 そしてまた、メディアのそうした欺瞞に気づいた国民も皆無であったのだ。
 じつは、これは珍しいことではない。日本人は、現在も、過去も、同じようにメディアによって操作され、それを「事実だ」と信じ込まされてきたのである。
 それが、疑うことの不得手な国民性を利用した、報道機関の「洗脳」であるとも知らずに。

誤報を連発し、検察批判で目をそらす
報道機関は、村木氏の事例とまったく同じ構図で、今また小沢一郎氏の批判を続けている。しかも、具体的な根拠を示さずに「政治とカネ」という便利な文言を使って世論を煽っている。
 〇九年三月から小沢氏を追及してきた記者クラブメディアは、検察からのリーク情報によってそうした記事を書き続けてきた。
 ところが二〇一〇年九月、当の検察が小沢氏を不起訴、つまり、一連の「政治とカネ」の問題を「無実」としてしまったことで事情が変わる。
 困ったのは報道機関である。小沢氏を「犯罪者」扱いして世論を誘導してきたのが、そうではないとなってしまったのだ。繰り返しおこなった世論調査の始末は誰がつけるのか。
 だが、日本のマスコミは自己防衛のためならば、どんなことでもやってのける。
 世論調査こそ唯一絶対の正義だという無理な論理を振りかざし、自らの正当性を声高に叫んだのだ。そして、激しい検察批判をすることで、小沢氏への一連の「誤報」から国民の目を逸らさせようとさえしているのである。
 誤報なら訂正すればいいのに、なぜ、マスコミは訂正から逃れようとするのだろうか。私はこの疑問を何度も新聞やテレビの記者たちにぶつけてきた。答えはいつも同じだった。
「新聞の世論調査が、間違えるはずがない」
 記者クラブメディアによるこの種の驕りは戦後一貫して続いてきた。果たして、国民が「洗脳」から解ける日は来るのだろうか。