健太郎は、18才にあと一ヶ月と云うところで老衰した。
衰弱して寝たり起きたりは一年ほど前からで、その前少し前から室内で飼うようになっていました。
幾度かの危篤を乗り越えたのは、飼い主(息子)の世話と看病のおかげです。
夏の暑さや冬の寒さにも屋外の小屋で良く耐えて元気な奴だった。
時々、機嫌が悪いのかなんだか、いきなりガブっとやられたりもしたが、飼い主はしっかり最後まで面倒をみていました。
今朝、火葬場で息子とふたり、健ちゃんとお別れをしました。
息子は小ぶりな骨壷の中が新居となった健ちゃんを家に連れ帰り、暫く気持ちの整理が出来るまで、自分で何かに納得が出来るまで手元に置きたいそうです。
自分は健ちゃんが喜んでくれるような送り方が出来ただろうかと涙を流していた。
そりゃまあ、そう思うのは健ちゃんが生きているときに自分の事を優先して、充分に可愛がってやらなかったことへの後悔の気持ちなんだろうが、そんなことを言える筈も無く、
「充分看病したじゃないか。怪我の手当だって立派に出来たし、なにしろこの歳まで生きられたのはお前がしっかり面倒をみたからだよ。病院(動物)の先生も良くこの歳まで生きたって感心してたし、褒めてくれたたじゃないか」などと慰めるしかないんだな。
私は、親父や健ちゃんにやがて訪れる死を予想出来たし、見送る心構えも出来ていたので、涙は出ない。泣くほどの深い悲しみも無く、当然の事、自然の摂理として受け止められるんだけど、そうじゃない人も居らっしゃるようですね。
死生観の違い、思い遣りの表し方の違いなんでしょう。
私が、死を迎えるときには、チューブで繋がないでくれ。人工呼吸器は付けないでくれ。
ただ、生きるだけの為に生きたくないんだ。なんて事を息子に話せた今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか。