数年前に、26聖人のシナリオを書きましたが、その前に京都に行きゆかりの地を回ってきました。
キリスト教に手を差し伸べ、宣教師たちを助けた信長が本能寺で暗殺された後、すぐ側にあった教会から宣教師たちは逃げたとあります。
どのくらいすぐ側なのかと、歩いてみました。
そんなに時間のかからないところでしたが、上記が信長が暗殺された本能寺ですが、火が付けられているので、これは再建されたものです。
お寺の床がすごく高いですよね。
私が作ったシナリオでは、このような高い床下に住んでいる猫たちと犬から見た26聖人のお話でした。
いつかこれも、まんがに出来たらいいなーとも思っています。
さて、教会跡はと言うと、永福寺の蛸薬師(たこやくし)堂になっています。
偶像でいっぱいでしたが、その映像は載せませんでした。
長崎のバプチスタが病院と教会を作っていた跡も、お寺になっています。
残念ですね。
新島邸
新島襄は、初め同志社を大坂(現・大阪)に作るつもりでした。
ところが、当時の大坂府知事の渡辺昇は、長崎に在任中にキリシタン問題に腕をふるった人でした。
渡辺は、学校を作るのは許可しましたが、宣教師の招聘は断然拒絶したので、新島は大坂ではなく京都に変更したのです。
京都では、明治5年に博覧会が開かれ、100日間だけ外国人が滞在できた時がありました。
その時、山本覚馬は宣教師デイビスからキリスト教関係の書物や聖書を送られたのです。
山本は、もともとは会津の藩士でしたが、京都で捕まり薩摩邸に幽閉されていた時、もともと悪かった目を失明しました。
それでも才能のある方だったので、明治になって釈放後京都府顧問になっていました。
その山本が、新島襄に手を差し伸べたのです。
僧侶1万2千人の大反対の中、同志社は8人の生徒からスタートしました。
この覚馬の妹が新島襄の奥さんの八重です。
ところで、大坂府知事の渡辺昇のかわいがっていた姪が渡辺ふで(筆子)で、鹿鳴館の華とも言われた方ですが、クララの英語の生徒でもありクリスチャンでした。
ふでは最初の結婚で3人の女の子ができますが、みんな障害のある子でした。
一人は夭折し、夫も亡くなります。
やがて、子供の通っていた障害児の学校である学滝乃川学園の創設者・石井亮一と結婚して、その生涯を支えました。
この結婚の時、多くの反対がありましたが、叔父の渡辺昇が後押ししてくれたのです。
浦上のキリシタン迫害の指揮を取った渡辺でしたが、クリスチャンである姪が、やはりクリスチャンで年下の石井亮一との結婚を後押ししたと言うのも不思議な神様の手を感じますね。
稲毛では、傾いていた電柱は新しいのものに代わり、地震の爪後はすっかり無くなっていました。
行きは、稲毛駅で降りて、帰りは稲毛海岸から乗りました。
電車からは、海が見え、ディズニーランドや水族館の建物も見えます。
海岸沿いのこちらの方が、景色が楽しめていいですね。
新木場からは、有楽町線で一本で帰れますが、池袋で画材を買うため遠回りをして帰りました。
写真の下は道路で、左に少し見えるのは歩道橋の階段ですが、私が知っている歩道橋の中で一番大掛かりな物です。
この橋の先をずっと行くと稲毛海岸の海です。
とても景色のいいところです。