まこねこまどかブログ

マンガ家まこねこの気ままな日記

白虎隊の生き残り

2012年08月28日 | 旅行


最近は、昔撮った写真をいろいろ利用しています。
今になって、資料として仕える物もたくさんあります。
私は、取材以外あまりいろんな所に行っていませんが、行ったら、とことん歩いていろんな写真を撮っています。
古い写真は、色が変色していますが、それでも、著作権に関係なく使えるので、安心です。
会津若松の飯盛山の入り口です。
この上で、白虎隊が、自決したのです。
私は、動く坂道を使って登りました。
飯盛山から、お城の方を望みましたが、よく分かりませんね。
それでも、行き残った一人がクリスチャンになったと言うのは嬉しいですね。

 

 

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佐久間象山の人生。

2012年08月28日 | 歴史

           
        会津若松の鶴ヵ城
前回、勝海舟の妹の順のことを書きました。
この人の人生も面白いと言うか、大変と言うか・・・。
17才で、42才の佐久間象山と結婚しました。
この、佐久間象山(しょうざん)は、ドラマにもよく出てくる人で、天才だと思いますが、うぬぼれの強い人でした。
おまけに、顔は、眼が大きくて、色が白くて大男で日本人離れした異様な感じです。
一度見たら忘れられない顔ですね。
この人は、自分のような天才の血統を残したいと言うので、結婚する前から側女を二人持っていました。
側女の蝶は、20代前半で、産んだ女の子3人が夭折しています。
もう一人の菊は、嫡男・恪二郎(かくじろう)を産みますが、他家にお嫁に行ってしまいました。
だから、菊が、恪二郎5才を育てていたのです。
そこに結婚して行ったわけですが、順には子供ができませんでした。
象山の弟子の吉田松陰(しょういん)が黒船に乗って、海外に行こうとして失敗するので、連鎖として象山も牢に入れられます。
その後、象山の家族は国元の松代藩に帰されますが、そこで自由に振舞い過ぎて、幕府から謹慎蟄居を言い渡されます。
藩からも、嫌われていましたが、その才能を買われて、徳川慶喜から京に招かれ「天下の治乱はおぬしの肩にかかっている」と手厚いもてなしを受け、「御開明」の思想を高く評価されたのです。
ところが、傲慢な性格が災いして、京の町を共も連れないで、馬に乗っていたところを、後ろから斬られてしまいました。
このところは、ドラマ「仁」でも詳しく出ていました。
その後、松代藩からは武士なのに後ろから斬られたという理由で、お家断絶になってしまいました。
順は、ちょうど母親が病気だったので、赤坂の勝家に戻っていました。
順は、息子の恪二郎17才に、仇討をするようにいい、新撰組に預けました。
ところが、新撰組が評判が悪いので、会津藩の山本覚馬と一緒に、会津に行く途中で、徳川が朝敵になったのを知り、お父さんの意思を尊重して、天皇に弓は弾けないと思い、なんと西郷隆盛を頼ったのです。
山本覚馬は、前にも何度も書きましたが、新島襄の奥さんの八重さんのお兄さんです。
後に同志社を作る時、クリスチャンになり協力した人です。
恪二郎は、佐久間恪(いそし)と名前を変え、薩摩側に付き、徳川と戦ったわけです。
やがて、徳川が負け、大政奉還がなされ、明治になりました。
吉田松蔭や佐久間象山の名誉が回復され、佐久間家は再興されましたが、やはり、恪二郎は、松代藩とうまく行かなかったのです。
そのため、勝海舟が引き取り、慶応義塾に入れ裁判官になりました。
ところが、1877年(明治10)2月15日、西南戦争が勃発し、西郷隆盛が死んだ後、2月26日に松山裁判所の判事をしていた佐久間恪(いそし)は、鰻による食中毒で急死したのです。
29才でした。
佐久間象山は、自分の血統を残すことに執着したのですが、これで血は絶えてしまったのです。
人間の考えは空しく、奢り(おごり)と言う事を考えさせられる人生ですね。

 

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