少子化により統合で母校が無くなって2年、卒業後20年以上を経てそろそろ
同窓会などへも顔を出したいと思い始める年齢だと思うが、やはり母校がすで
に無いというのは寂しいものである。私の通った築上中部高校は周囲の3校で
合併し青豊高校という名になった。新しい敷地に移転統合のため、まだ校舎や
敷地は閉校前のまま残っているが、敷地や建物をどう活用するつもりなのかは
やはり気になる。
インターネットを始めた頃、同窓会サイト「この指とまれ!」を結構活用さ
せてもらった。活用だけでなく、今はリニューアルされているが、友人の紹介
もあって同サイトのクリッカブルマップのデザインもさせてもらった。忙しく
て半分忘れかけていたことだが、こうして過去を思い出すことも大切だと今は
思う。感謝の気持ちを忘れないためにも…。
先日、吉田初三郎について、少しでも情報を持っていそうな方を大分県中津
市役所で教えてもらい、隣の上毛町(福岡県)の方に連絡を取ってみたが、や
はり情報どころか初三郎を全くご存じなく、また隣の豊前市の方を教えてもら
った。豊前は私の地元であるが、数名をリレーして結局は3年前に豊前市で最
初に初三郎作「豊前市鳥瞰図」の絹本原画画像を観てもらった方に戻ってしま
った(笑)。
豊前市は昨年市制50周年を迎え、記念誌や写真集を制作した。内容的には
とても良くまとめられているが、残念ながら宇島鉄道をはじめ市の産業や観光
に関する写真資料が集まらなかったのか、期待していた写真は殆ど無かった。
特に絵葉書画像は自己所有の方が内容が濃い。宣伝のために配られたものだか
ら、市外の方が資料も見つかるのであろう。私が所有する豊前の絵葉書の半数
はなんと北海道の古書店などで購入したものだ。
今日の画像は、二代目吉田初三郎こと吉田朝太郎が昭和35年に描いた「豊前
市鳥瞰図」直筆トレース画の部分である。私の通った中部高校はもちろん、日
本で最後にできた城「旭城」なども描かれ、また市役所は現在地へ新築移転前
の場所である。私が小学校低学年の頃、この豊前市は日本初!の赤字再建団体
となったと記憶している。
この図の印刷物は未見である。描かれている内容、また福岡県内の他の作品
制作時期から考慮すると昭和35年、市制5周年記念の作と考えるのが定石であ
ろう。建物の位置、また溜め池などの位置関係もほぼ正確である。これは黒版
の原図であるため、赤などで表現される鉄道線は描かれていないが宇島駅の駅
舎は細かく描き込まれている。
実はこの鳥瞰図の左側には中津市や耶馬渓も描かれている。しかし朝太郎は
この地に詳しくなかったと見えて、中津市との間に流れる県境の「山国川」を
「山田川」と誤記している。お孫さん所有の絹本原画も同様である。初三郎に
とっては特別な地である中津や耶馬渓だが、独立後に作品を残している前田虹
映が初三郎に同行し踏査スケッチしていたと考えると、朝太郎はこの地に赴い
たことが無かったのかもしれない。
ちなみに昭和の名曲に「丘を越えて」という藤山一郎がヒットさせた曲があ
る。福岡県の生んだ偉大な作曲家・古賀政男が作曲し、豊前市黒土出身の島田
芳文が詩をつけたものであり、楽しそうに「丘を越えて」行く先は中津である。
20年近く昔、中津ではこの曲を一昼夜ずっと歌い続けるイベントを行ったこと
がある(笑)。私はその後転職で北九州へ転居したため、その後も続けられた
のかは不明である。
今年はできれば高校の同窓会に顔を出したいと思う。
同窓会などへも顔を出したいと思い始める年齢だと思うが、やはり母校がすで
に無いというのは寂しいものである。私の通った築上中部高校は周囲の3校で
合併し青豊高校という名になった。新しい敷地に移転統合のため、まだ校舎や
敷地は閉校前のまま残っているが、敷地や建物をどう活用するつもりなのかは
やはり気になる。
インターネットを始めた頃、同窓会サイト「この指とまれ!」を結構活用さ
せてもらった。活用だけでなく、今はリニューアルされているが、友人の紹介
もあって同サイトのクリッカブルマップのデザインもさせてもらった。忙しく
て半分忘れかけていたことだが、こうして過去を思い出すことも大切だと今は
思う。感謝の気持ちを忘れないためにも…。
先日、吉田初三郎について、少しでも情報を持っていそうな方を大分県中津
市役所で教えてもらい、隣の上毛町(福岡県)の方に連絡を取ってみたが、や
はり情報どころか初三郎を全くご存じなく、また隣の豊前市の方を教えてもら
った。豊前は私の地元であるが、数名をリレーして結局は3年前に豊前市で最
初に初三郎作「豊前市鳥瞰図」の絹本原画画像を観てもらった方に戻ってしま
った(笑)。
豊前市は昨年市制50周年を迎え、記念誌や写真集を制作した。内容的には
とても良くまとめられているが、残念ながら宇島鉄道をはじめ市の産業や観光
に関する写真資料が集まらなかったのか、期待していた写真は殆ど無かった。
特に絵葉書画像は自己所有の方が内容が濃い。宣伝のために配られたものだか
ら、市外の方が資料も見つかるのであろう。私が所有する豊前の絵葉書の半数
はなんと北海道の古書店などで購入したものだ。
今日の画像は、二代目吉田初三郎こと吉田朝太郎が昭和35年に描いた「豊前
市鳥瞰図」直筆トレース画の部分である。私の通った中部高校はもちろん、日
本で最後にできた城「旭城」なども描かれ、また市役所は現在地へ新築移転前
の場所である。私が小学校低学年の頃、この豊前市は日本初!の赤字再建団体
となったと記憶している。
この図の印刷物は未見である。描かれている内容、また福岡県内の他の作品
制作時期から考慮すると昭和35年、市制5周年記念の作と考えるのが定石であ
ろう。建物の位置、また溜め池などの位置関係もほぼ正確である。これは黒版
の原図であるため、赤などで表現される鉄道線は描かれていないが宇島駅の駅
舎は細かく描き込まれている。
実はこの鳥瞰図の左側には中津市や耶馬渓も描かれている。しかし朝太郎は
この地に詳しくなかったと見えて、中津市との間に流れる県境の「山国川」を
「山田川」と誤記している。お孫さん所有の絹本原画も同様である。初三郎に
とっては特別な地である中津や耶馬渓だが、独立後に作品を残している前田虹
映が初三郎に同行し踏査スケッチしていたと考えると、朝太郎はこの地に赴い
たことが無かったのかもしれない。
ちなみに昭和の名曲に「丘を越えて」という藤山一郎がヒットさせた曲があ
る。福岡県の生んだ偉大な作曲家・古賀政男が作曲し、豊前市黒土出身の島田
芳文が詩をつけたものであり、楽しそうに「丘を越えて」行く先は中津である。
20年近く昔、中津ではこの曲を一昼夜ずっと歌い続けるイベントを行ったこと
がある(笑)。私はその後転職で北九州へ転居したため、その後も続けられた
のかは不明である。
今年はできれば高校の同窓会に顔を出したいと思う。