日本の庶民にとって観光とは、交通機関で現地へ行き、風光景観を見て土産
を買って帰ることであった。日本人に限らず東洋人に同様の傾向が強いようだ
が、観光ツアーで限られた時間により沢山の観光地を見て廻る。じっくりと一
カ所に滞在して本当の意味でその地を楽しむことは、富裕層に限られた特権だ
った時代が最近まで続いていた。
しかし今は世界でも有数の富裕国となり、昭和3~40年代までの貧民層は僅
かとなった。庶民でも頑張れば別荘を買えるし、海外旅行を含め好きな時に好
きな場所へ行ける時代である。世界遺産巡りをはじめ、より雄大な自然や遺跡
巡りへ人々は旅立ち、身近な場所にも娯楽施設が建ち並び、従来型の観光地は
いずれも衰退している。
観光地への手段も、当初は団体旅行中心、列車・客船が中心であったものが
バス・飛行機へと替わり、さらに自家用車へと進んだ結果、団体客頼みの観光
地や施設は軒並み衰退し、個人や少人数に対象を絞ってサービスを心がけた施
設のみが生き残っているのが実態である。
温泉に限っても、昭和20年代に1100カ所程度だった温泉地が現在は3000
を超える温泉があり、都心部や周辺にはスーパー銭湯など日帰り施設も乱立。
昭和30~40年代の温泉ブーム、団体旅行ブームで賑わったのは大型の温泉ホ
テル・旅館であったが、今では個人客をもてなす力が無ければ老舗といえども
廃業の憂き目に合う。
産業・ビジネスとして50年前に成熟していた温泉地は、その後の生き残り
策に失敗すると一気に衰退してしまった。吉田初三郎が残した昭和21~23年
の日記を頼りに、熊本県下の各温泉旅館・ホテルを捜索しているが、期待して
いた「阿蘇ホテル」は初三郎の書き誤りで正式には「阿蘇観光ホテル」であっ
た。阿蘇谷にあった九州産業交通グループの大型ホテルだったが、2000年に
休業し現在は建物の一部が資産管理され残るのみである。
同ホテルの「蘇峰館」に初三郎は度々滞在し、支配人の本田氏のお店に掲げ
られていた自作「阿蘇大観之図」絹本原画が、連合軍の将校達に人気で絵の前
で記念撮影が絶えないことを喜ぶ記述がある。当時、阿蘇観光ホテルは連合軍
の慰労施設となっていたようで、ここに泊まって神奈川にある「蘇峰記念館」
の「阿蘇大観図」も描いている。本田支配人の店に掲げられていた図はいずこ
に?現存すれば文化財級の新発見である。
同ホテルは残念ながら昭和37年頃に漏電による失火で全焼し、その後再建さ
れた過去がある。所蔵絵の一部は持ち出されたようだが、果たして初三郎の絵
は焼失したのであろうか?廃業し廃墟となった同ホテルは別の意味で最近著名
となっている。つまり映画「輪廻」の舞台ロケ地となった訳である。
阿蘇観光ホテルは戦後、昭和天皇が3度も宿泊した銘ホテルであった。九州
産業交通グループということがあったにせよ、一帯には内牧温泉はじめ多数の
老舗有名旅館があるのに…である。館内には初三郎の鳥瞰図「阿蘇大観之図」
以外にも複数の掛け軸や額装作品はじめ、著名画家の名画が多数あったとの事
で、ひょっとするとその事が3度の宿泊に繋がったのかもしれない。
初三郎についての調査を進めれば進めるほど、もう10年早く調査をしてい
れば、資料発見も聞き取り調査ももっと楽だったことが判る。過ぎたことは仕
方ないが、もう10年放っておくと全く判らなくなるのは目に見えている。こ
れは初三郎の調査に限らず、地域に眠る近代資料や地域の逸話に関しても同じ
ことである。
興味深いことに昭和20年代の地域史を読むと、今の私の感想と同じことが
奥付や挨拶文に書かれていることが多い。今に残る貴重な地域史は、私のよう
に記録を残す大切さに気づいた人間、古き文化や記録、先人の功績を後世へ残
すことを誰かがしなければ、その記憶は闇に眠ってしまうのである。改めて、
近代史の必要性を実感する毎日だ。
今日の写真は、吉田初三郎「熊本県鳥瞰図(昭和6年)」の阿蘇付近部分。
を買って帰ることであった。日本人に限らず東洋人に同様の傾向が強いようだ
が、観光ツアーで限られた時間により沢山の観光地を見て廻る。じっくりと一
カ所に滞在して本当の意味でその地を楽しむことは、富裕層に限られた特権だ
った時代が最近まで続いていた。
しかし今は世界でも有数の富裕国となり、昭和3~40年代までの貧民層は僅
かとなった。庶民でも頑張れば別荘を買えるし、海外旅行を含め好きな時に好
きな場所へ行ける時代である。世界遺産巡りをはじめ、より雄大な自然や遺跡
巡りへ人々は旅立ち、身近な場所にも娯楽施設が建ち並び、従来型の観光地は
いずれも衰退している。
観光地への手段も、当初は団体旅行中心、列車・客船が中心であったものが
バス・飛行機へと替わり、さらに自家用車へと進んだ結果、団体客頼みの観光
地や施設は軒並み衰退し、個人や少人数に対象を絞ってサービスを心がけた施
設のみが生き残っているのが実態である。
温泉に限っても、昭和20年代に1100カ所程度だった温泉地が現在は3000
を超える温泉があり、都心部や周辺にはスーパー銭湯など日帰り施設も乱立。
昭和30~40年代の温泉ブーム、団体旅行ブームで賑わったのは大型の温泉ホ
テル・旅館であったが、今では個人客をもてなす力が無ければ老舗といえども
廃業の憂き目に合う。
産業・ビジネスとして50年前に成熟していた温泉地は、その後の生き残り
策に失敗すると一気に衰退してしまった。吉田初三郎が残した昭和21~23年
の日記を頼りに、熊本県下の各温泉旅館・ホテルを捜索しているが、期待して
いた「阿蘇ホテル」は初三郎の書き誤りで正式には「阿蘇観光ホテル」であっ
た。阿蘇谷にあった九州産業交通グループの大型ホテルだったが、2000年に
休業し現在は建物の一部が資産管理され残るのみである。
同ホテルの「蘇峰館」に初三郎は度々滞在し、支配人の本田氏のお店に掲げ
られていた自作「阿蘇大観之図」絹本原画が、連合軍の将校達に人気で絵の前
で記念撮影が絶えないことを喜ぶ記述がある。当時、阿蘇観光ホテルは連合軍
の慰労施設となっていたようで、ここに泊まって神奈川にある「蘇峰記念館」
の「阿蘇大観図」も描いている。本田支配人の店に掲げられていた図はいずこ
に?現存すれば文化財級の新発見である。
同ホテルは残念ながら昭和37年頃に漏電による失火で全焼し、その後再建さ
れた過去がある。所蔵絵の一部は持ち出されたようだが、果たして初三郎の絵
は焼失したのであろうか?廃業し廃墟となった同ホテルは別の意味で最近著名
となっている。つまり映画「輪廻」の舞台ロケ地となった訳である。
阿蘇観光ホテルは戦後、昭和天皇が3度も宿泊した銘ホテルであった。九州
産業交通グループということがあったにせよ、一帯には内牧温泉はじめ多数の
老舗有名旅館があるのに…である。館内には初三郎の鳥瞰図「阿蘇大観之図」
以外にも複数の掛け軸や額装作品はじめ、著名画家の名画が多数あったとの事
で、ひょっとするとその事が3度の宿泊に繋がったのかもしれない。
初三郎についての調査を進めれば進めるほど、もう10年早く調査をしてい
れば、資料発見も聞き取り調査ももっと楽だったことが判る。過ぎたことは仕
方ないが、もう10年放っておくと全く判らなくなるのは目に見えている。こ
れは初三郎の調査に限らず、地域に眠る近代資料や地域の逸話に関しても同じ
ことである。
興味深いことに昭和20年代の地域史を読むと、今の私の感想と同じことが
奥付や挨拶文に書かれていることが多い。今に残る貴重な地域史は、私のよう
に記録を残す大切さに気づいた人間、古き文化や記録、先人の功績を後世へ残
すことを誰かがしなければ、その記憶は闇に眠ってしまうのである。改めて、
近代史の必要性を実感する毎日だ。
今日の写真は、吉田初三郎「熊本県鳥瞰図(昭和6年)」の阿蘇付近部分。
楽しみにしてるんで更新頑張って下さいね!
僕のブログではターバン野口の折り方を紹介しています。
暇があったら是非どうぞ。
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