最近、シンボルマークのデザインのパクリだなんだが問題化していますが、デザインを生業としてきた者としては「良いデザインほどシンプル」であり、究極を求めていくと表面上は既存の何かに似てくるものだと思っています(実際は細部をみると明らかに違うのですが)。騒動の経緯を静かに見守っていますが、審査委員が選考過程やデザイン修正経緯を明らかにしてくれたことで、疑惑が晴れて問題が沈静化することを願います。
デザインに限らずパクり疑惑は昔から頻繁に問題化してました。写真1枚目の博多江月堂さんの「ひな鶴」という商品は、みてそのまま博多銘菓の石村萬盛堂「鶴の子」そっくりで、戦後まで訴訟ネタだったそうです。
同じそっくりでも戦前「福お菓子(福岡市に掛けたネーミング)」という鶴の子そっくりのパッケージのお菓子がありましたが、これは萬盛堂さんからの暖簾分けで中身も鶴の子だったとか(笑)。
以前、FBSナイトシャッフル「記憶探偵キノレオ」で「博多駅で売られた最初の博多銘菓」をネタとして取り上げていただいたように、個人的に博多の菓子店史も少しずつ資料収集&取材して準備中です。すでに多くのお店が廃業しており、辿っていける時間も限られてきました。味噌せんぺいの梅月堂さんが閉店の際は、聞き取りと様々な資料をアーカイブ化(金型がどこへ行ったのかも把握)。ばんぎやさんが火災にあった時も、すぐに駆けつけて焼け残った資料を形見的に分けていただいた口です。
写真3枚目は天神木村屋パン、戦前は渡辺通り沿いにありましたが戦後の都市計画に沿った渡辺通り拡幅により明治通り(現在は天神木村屋ビル)に移転し営業を続けたそうです。
4枚目は戦前の東中洲の名店・生田菓子舗、現在の中洲大洋劇場の場所にありました。幾度も火災に合うも立ち直り、最盛期には天神にも出店し、戦後も中洲で喫茶併設店舗が人気だったとか。
5枚目は戦前、福岡で最も大きな菓子店だったという和田喜楽堂…橋口町(現在は道路が拡幅されて昭和通り)にあったそうです。天神にあった凪洲屋さんも8年ほど前に閉店し、戦後の名店・風月さんは飲食店やパン屋さん(バンテルン)の方が有名になっているかもしれません。風月さんの50年史(非売本)は素晴らしい内容です。