記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

吉田初三郎と京都の老舗・和多田印刷との関係

2007年03月30日 18時09分51秒 | 吉田初三郎
 吉田初三郎の研究の中で、私が最も力を入れているのは印刷美術
との関係である。初三郎は大正初期から昭和30年に亡くなるまで
の45年間、印刷技術の進化の中で自身の活動を継続していった。

当初は石版印刷(リトグラフ)の中での版画的・浮世絵的な表現を
模索し、大正12年の関東大震災以後進むオフセット印刷(現在の
主流印刷手法)に切り替わる過程、そして単色重ね刷りによるカラ
ー表現から、絹本原画をそのままカラー写真として表現できるよう
になる昭和5~7年の間に、原画の描き方は大きく変化している。

 この時期は工房の弟子達の技術の向上も重なり、観光社の最盛期
でもあり、愛知・犬山の蘇江画室時代にあたる。昭和7年に種差海
岸に画室を構えると、犬山よりも交通の便の良い名古屋に会社拠点
を移し、同時に出身地である京都の工房も強化する。

 この時期の観光社の発展をサポートしたのが、京都の和多田印刷
である。創業者・和多田與太郎氏は観光社の経営にも名を連ね、観
光社出版部として初三郎の画業を印刷美術面から支えている。

 掲載している写真は、初三郎作品の中でも昭和7~9年初めにか
けての作品で、全て和多田印刷で印刷されたものである。他の印刷
会社で印刷された同時期の作品と比較して、印刷の仕上がりも洗練
された印象である。この作品群は先述したカラー写真製版の技術を
いち早く取り入れた、非常に優れた印刷作品であり、和多田印刷は
初三郎の実験室の役割も果たしていた。

 昭和7年、大阪出版社が発行した「印刷美術大観」に、和多田印
刷は初三郎「日本八景雲仙岳(昭和2年)」を出品している。同書
にはカラー写真製版がこれから飛躍的に発展するであろう旨の文章
も載り、和多田印刷が昭和初期から初三郎の印刷を支えていること
も判る。

 しかし、昭和9年以降、観光社の出版物から和多田印刷の名が消
えていく。この時期は初三郎の多くの弟子達が成熟し初め、独立心
が芽生えた時期でもある。弟子である以上、今のような給与がもら
えた訳ではなく、弟子やその家族の生活は全て初三郎が賄っていた。

 種差に画室が開設され、初三郎の拠点は種差への比重が高まる。
昭和5年頃から新聞記事などですでに「令息」と紹介されている吉
田朝太郎や中村治郎らは種差海岸へ移住。東北や北海道方面の作品
依頼が増える中で、観光社は地方ごとに担当弟子が決まったような
形態となっていく。(以下、つづく)


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