クリスマス直前、新天町など商店街もイルミネーションや広告が華やかだ。
賑わいの風景を撮影するなら、この時期から大晦日までが一番である。21日、
写真家の北島寛さんとサン・フカヤでお会いし色々話した。11月に発売され
た写真集「日々常々」を持参し、サインもお願い。大正生まれだが、このお
年になっても生き甲斐や目標がはっきりしている方はお元気である。
おもに昭和30年代前半に撮影された数々の写真の中から、子どもに視点を
充てた写真ファイルを持参いただき、一点一点の撮影の詳細、カメラを向け
た瞬間の思いや撮影時のエピソードを教えていただく。私自身、古い写真を
蒐集しそれを読み解くことをライフワークにしているが、やはり撮影者本人
から直接伺うのが一番勉強になる。
自分で様々な写真を撮影するようになったのも、最初は撮影者の意図や視
点のポイントを体感することで、少しでも古い写真の解読に役立つのではな
いかと考えたから。私の信条は、何に取りかかる時でもそれを可能な範囲で
実体験し、その立場や内容を把握しやすい位置へ近づくことである。当たり
前といえば当たり前のことだが、万事スピードと効率が要求される時代では
その行程が省かれることが多いが、最も大切なことだと思う。
私が求めているのは結果ではない。そこにたどり着く過程やそこで出逢う
人々との交流こそが私の求めているもの。楽しい時間を共有し、私が携わっ
た本や企画が、少しでも人々に良い感動を与えることができれば本望。写真
はその手段、魅力的な写真は説明不要の最大のコミュニケーションツールだ。
18日、豊後高田で久々に金谷俊樹さんとお会いした。「昭和の町」が抱え
る課題や未来像を含めて、全国の商店街が抱える共通の問題について意見を
伺う。私が考えていたことと同じことを金谷さんが口にされ、思考や向いて
いる方向が近いことを再確認。その上で、全国に残る商店街の中で、そのま
ま「昭和の町」として将来文化財になり得る処を意見として伺った。
4年前の雑文に書いたことだが、「昭和の町」の発想は原点回帰である。
ただ昭和レトロブームに乗って、看板を架け替え外見を昭和っぽくすれば良
いという訳ではない。豊後高田の永い町の歴史を時代ごとに解読し、周辺の
まちと決定的に違う点として最後に遺ったのが「昭和30年代」という時代だ
った。
金谷さんは大学で歴史学を学び、地図や資料を読み解く近代史が専門。10
数年前「昭和の町」というテーマでまちおこしをできると気づいた際、きっ
かけになったのが私の古巣であるゼンリンの昭和30年代の住宅地図だったこ
とは、意外に知られていない。旧家の畳の下敷きにしていたバラバラの住宅
地図が昭和の町のスタート。嬉しさのあまりゼンリン本社に「ありがとう」
の電話をしたけど無視された、と話してくれたのは「昭和の町」がスタート
した直後だったか。
これから先、「昭和」をテーマにした町並みも文化財へ登録される時期が
来る。その際、金谷さんが知る「最も昭和の名残りのある商店街は?」との
問いに、彼が語った商店街は以前私がふらりと立ち寄った倉敷市にある古い
玉島商店街だった。美観地区として整備されている地域ではないが、私は3
年前に偶然この地を訪れており、納得する思いだ。
高度成長期後、バブルの乱開発期を経て今に遺る「昭和的町並み」の多くは、
運良く「発展から取り残された」まちである。再開発の話が無いから古い建
物が遺っている。お金が無いから取り壊すこともしないのである。正直、豊
後高田よりも直方などの方が、その気になれば立地的にも景観的にも勝る部
分が多い。ベクトルがそちらへ向いているか、まとめ役がいるかの違いだ。
今日の写真は、豊後高田「昭和の町」の街角。この商店は数年前に閉店。
賑わいの風景を撮影するなら、この時期から大晦日までが一番である。21日、
写真家の北島寛さんとサン・フカヤでお会いし色々話した。11月に発売され
た写真集「日々常々」を持参し、サインもお願い。大正生まれだが、このお
年になっても生き甲斐や目標がはっきりしている方はお元気である。
おもに昭和30年代前半に撮影された数々の写真の中から、子どもに視点を
充てた写真ファイルを持参いただき、一点一点の撮影の詳細、カメラを向け
た瞬間の思いや撮影時のエピソードを教えていただく。私自身、古い写真を
蒐集しそれを読み解くことをライフワークにしているが、やはり撮影者本人
から直接伺うのが一番勉強になる。
自分で様々な写真を撮影するようになったのも、最初は撮影者の意図や視
点のポイントを体感することで、少しでも古い写真の解読に役立つのではな
いかと考えたから。私の信条は、何に取りかかる時でもそれを可能な範囲で
実体験し、その立場や内容を把握しやすい位置へ近づくことである。当たり
前といえば当たり前のことだが、万事スピードと効率が要求される時代では
その行程が省かれることが多いが、最も大切なことだと思う。
私が求めているのは結果ではない。そこにたどり着く過程やそこで出逢う
人々との交流こそが私の求めているもの。楽しい時間を共有し、私が携わっ
た本や企画が、少しでも人々に良い感動を与えることができれば本望。写真
はその手段、魅力的な写真は説明不要の最大のコミュニケーションツールだ。
18日、豊後高田で久々に金谷俊樹さんとお会いした。「昭和の町」が抱え
る課題や未来像を含めて、全国の商店街が抱える共通の問題について意見を
伺う。私が考えていたことと同じことを金谷さんが口にされ、思考や向いて
いる方向が近いことを再確認。その上で、全国に残る商店街の中で、そのま
ま「昭和の町」として将来文化財になり得る処を意見として伺った。
4年前の雑文に書いたことだが、「昭和の町」の発想は原点回帰である。
ただ昭和レトロブームに乗って、看板を架け替え外見を昭和っぽくすれば良
いという訳ではない。豊後高田の永い町の歴史を時代ごとに解読し、周辺の
まちと決定的に違う点として最後に遺ったのが「昭和30年代」という時代だ
った。
金谷さんは大学で歴史学を学び、地図や資料を読み解く近代史が専門。10
数年前「昭和の町」というテーマでまちおこしをできると気づいた際、きっ
かけになったのが私の古巣であるゼンリンの昭和30年代の住宅地図だったこ
とは、意外に知られていない。旧家の畳の下敷きにしていたバラバラの住宅
地図が昭和の町のスタート。嬉しさのあまりゼンリン本社に「ありがとう」
の電話をしたけど無視された、と話してくれたのは「昭和の町」がスタート
した直後だったか。
これから先、「昭和」をテーマにした町並みも文化財へ登録される時期が
来る。その際、金谷さんが知る「最も昭和の名残りのある商店街は?」との
問いに、彼が語った商店街は以前私がふらりと立ち寄った倉敷市にある古い
玉島商店街だった。美観地区として整備されている地域ではないが、私は3
年前に偶然この地を訪れており、納得する思いだ。
高度成長期後、バブルの乱開発期を経て今に遺る「昭和的町並み」の多くは、
運良く「発展から取り残された」まちである。再開発の話が無いから古い建
物が遺っている。お金が無いから取り壊すこともしないのである。正直、豊
後高田よりも直方などの方が、その気になれば立地的にも景観的にも勝る部
分が多い。ベクトルがそちらへ向いているか、まとめ役がいるかの違いだ。
今日の写真は、豊後高田「昭和の町」の街角。この商店は数年前に閉店。