記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

天覧作「景勝山口全県図」の制作過程

2007年03月22日 22時26分26秒 | 吉田初三郎
 サイトを回遊していて初三郎ポスターを今も活用されている、
俵山温泉・松屋旅館さんのブログに着いた。今日は松屋さんのあ
る山口県の原画について書く。

 昨日の日記に書いた初三郎「景勝山口全県図」絹本原画は、山口
県旧県庁舎の会議室に掲額されている。図には「昭和22年菊花
の秋 初三郎」と記され、これは戦後唯一の天覧作となっている。

 この図製作のための現地踏査取材は、昭和22年9月24日より
始まっている。この年、初三郎は5月の大半を病に伏しており、
佐敷で静養している。7月16日に佐敷を発ち、3日後には八戸
種差の潮観荘に到着。数日滞在の後、東京、京都、広島を数回
往復し、広島原爆図のシリーズを描いている。その後9月18日に
京都を発ち、広島を経由して22日に光市の渡辺印刷へ到着。

 踏査取材は24日25日が光市、26日27日は徳山市、28日は徳
山湾に浮かぶ黒髪島などを海上取材。徳山市踏査は29日終了。
10月1日は大畠、久賀を踏査、2日は白木山山頂より展望、そ
の後3日に離島巡り、4日は小松、5日まで県南部を踏査する。

 6日は午前中光市を踏査し、午後は講演会を開催。8日からは
山口市踏査(13日まで)。14日15日は秋吉台、16日は長府、
下関へ向かい17日は彦島踏査。18日19日は門司へ渡り、帰りに
は建設中の関門人事トンネルを見学している。

 その間、級友や各地の支援者、光市や下関市など各市長とも
会談し、朝日新聞や西日本新聞などの取材も受けている。10月
20日には長門青海島へ移動し踏査。そして10月21日には戦前に
鳥瞰図ポスターを製作している俵山温泉から自動車を手配しても
らい、途中で湯俵間の峠が面白いと感想を書いている。

 俵山の手前で龍円寺に拝し、俵山で昼食。摩羅観音などを取
材して湯本温泉へ向かい洗水亭旅館に泊まっている。同じ日に
朝日新聞向けにこの作品の記者発表を行っている。22日には小
野田、宇部を経て柳井まで移動し、朝日新聞、毎日新聞の取材
を受ける。この日泊まった柳井の宿はこの旅行中最悪のサービ
スであると書いている(笑)。

 23日には光市を経て岩国へ入り、錦帯橋など踏査。28日には
一旦広島へ向かい、すぐに光市へ戻る。29日には広島図書の津
川専務に弁当をいただき(笑)、京都へ向かい夕刻に山科の自宅
へ戻っている。30日と31日に「景勝山口全県図」作画の準備に
取りかかり、筆絹など道具類をまとめ光市へ郵送。10月2日には
再度広島へ立ち寄り、数日天覧画製作の打合せに費やす。

 5日には下関へ列車で向かい、中国新聞支社長と歓談、そのま
ま宇部市まで同行するなどハードな日程がたたったのか、8日に
なると風邪による発熱で寝込んでいる。全快した11日よりいよい
よ天覧画の構図に入り熱中している。京都から同行してきていた
阿瀬庄太郎(のち観光社社長、初三郎の実子)はこの日の夜行で
帰京、一方の吉田朝太郎(二代目)はずっと初三郎について、構
図や作画を手伝っている。

 12日から21日にかけて、昼夜問わず寝食を忘れ作画に熱中する
様子が日記には克明に記されている。22日には進行中の天覧画を
西日本新聞記者が取材、翌23日には天覧画のひとつ「港徳山」が
完成とあり、どうやら鳥瞰図と別に風景画や小品の作画も多数描い
たことが判る。

 24日には再び西日本新聞や朝日新聞が取材に訪れ、翌25日に
完成発表会を開く予定であることも記されている。しかし完成が
間に合わず翌日掲載予定だった西日本新聞に急遽記事差し止めの
電話を入れている。

 結局27日に天覧画の完成展示会が開かれ、作品が「景勝山口全
県図」「港徳山」「秋芳洞」の3点であると記述あり。「港徳山」
は徳山市の担当課長とのやりとりが克明に記され、どうやら地元
にあるのではないかと推測できる。

 この「種差日記」の最後は11月30日であり、文章の最後には
「この夜、百画会の画絹をはる」とある。百画会とは何のことか
まだまだ不明な点が多く、日記の解読は続く。(日記はご遺族よ
り研究のためにお借りしているもの)

山口県内には数多くの初三郎原画が残っている。詳細はまた後日。
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