今日の福岡は久々の快晴だった。昨夜のニュースで植木等の訃
報を知り、今朝は各局の回顧VTRを熱心に観た。私も妻も世代
的にはリアルタイムで「無責任」シリーズを知る世代ではないが、
芸能・音楽好き一家として(笑)自宅のライブラリーにはクレイ
ジー・キャッツのCDやDVDが並び、平成2年だったか紅白歌
合戦の映像を録画していたと思い、古いビデオを倉庫に入って探
した。
いかりや長さんの訃報の時も、自宅に並ぶドリフのCDをBG
M代わりに掛けつづけたことを思い出す。あの時も3月だった。
スカパーでは「無責任」シリーズの映画がよく放送されているの
で、時間があれば観たり録画している。12月、青島幸夫さんと岸
田今日子さんの訃報が重なった時も、録画していた映像を繰り返
し観た。11歳の娘には「いじわるおばさんの青島さん」「HR
や動物のお医者さんの岸田さん」と説明した。なぜか我が家には
この手のDVDが必ずある(笑)。素朴で人間味溢れる笑いを、
我が家は大好きなのである。
いじわるばあさん、サザエさんといえば長谷川町子。佐賀の生
まれで育ちは福岡である。戦後すぐ、長谷川家が暮らしていた西
新町からほど近い百道浜(ももちはま)は、サザエさんの故郷。
病弱の妹と海岸を散歩しながら名前を考えたので海産物の名前に
なったことは自伝にも書かれている。
やっと長谷川財団の許可が降りたようで、早良区ではサザエさ
んの解説版を百道の旧海岸部に設置するという。そのサザエさん
の磯野家だが、福岡で当時「磯野」といえば日本一と言われた、
「磯野式」の農機具製造販売の磯野鉄工所であり、その発展を築
き福岡市の二代目市長も務めたのは「波平」と一字違いの(笑)
「磯野七平」であった。磯野家は代々「七平」を継ぐ。
波平に「平」の字がついたのは、ひょっとしたら七平の影響が
あったのか?と勝手に解釈を楽しんだりする。七平は西鉄などの
前身にあたる博多電灯の創始、土居銀行など銀行創始も数多く、
博多港全体の開発の必要も説き開発会社を創始するなど、明治期
の博多に多大な功績を残す。長谷川町子在福時の七平も、福博の
町で役職を数多く持ち、著名人であった。磯野家の跡地が現在の
冷泉公園である。
博多湾の開発に沿い、博多湾鉄道は大正初期に開通。路線網は
当時隆盛を極めた勝田・志免などの糟屋炭田を西戸崎で積み出す
経路として香椎線を設置。一方の新博多から宮地岳までの路線は
宮地岳神社参拝の主交通手段として設置された。唯一の海軍直営
炭坑であった志免は、戦前の軍艦などの燃料を賄っていた。その
遺物は今も立坑櫓とボタ山が残り、産業遺産として見守り保存さ
れている。
余談だが、長谷川は自伝の中で、当時の博多湾鉄道「新博多」
駅から香椎まで叔父の家に行った際のエピソードなどを書いてい
る。写真掲載した「博多湾鉄道」鳥瞰図は、子どもだった長谷川
が湾鉄を利用した頃に描かれた初三郎作品で、福岡市博物館には
絹本原画が収蔵されている。
博多湾鉄道はその後、昭和17年に戦時下企業整備によって西日
本鉄道となり、新博多から貝塚までの区間は地下鉄箱崎線開通に
合わせ廃止された。残りが現在宮地岳線として存続していたが、
今週で宮地岳線の名称は消える。
今日も天気が良かったので昼から娘を誘って、廃止区間の電車
を撮影に行った。19日から走っているさよなら車両も撮影した
かったのだが、辛うじて福間駅で撮影できた。鉄道ファンはこの
日もたくさん撮影に訪れていた。
報を知り、今朝は各局の回顧VTRを熱心に観た。私も妻も世代
的にはリアルタイムで「無責任」シリーズを知る世代ではないが、
芸能・音楽好き一家として(笑)自宅のライブラリーにはクレイ
ジー・キャッツのCDやDVDが並び、平成2年だったか紅白歌
合戦の映像を録画していたと思い、古いビデオを倉庫に入って探
した。
いかりや長さんの訃報の時も、自宅に並ぶドリフのCDをBG
M代わりに掛けつづけたことを思い出す。あの時も3月だった。
スカパーでは「無責任」シリーズの映画がよく放送されているの
で、時間があれば観たり録画している。12月、青島幸夫さんと岸
田今日子さんの訃報が重なった時も、録画していた映像を繰り返
し観た。11歳の娘には「いじわるおばさんの青島さん」「HR
や動物のお医者さんの岸田さん」と説明した。なぜか我が家には
この手のDVDが必ずある(笑)。素朴で人間味溢れる笑いを、
我が家は大好きなのである。
いじわるばあさん、サザエさんといえば長谷川町子。佐賀の生
まれで育ちは福岡である。戦後すぐ、長谷川家が暮らしていた西
新町からほど近い百道浜(ももちはま)は、サザエさんの故郷。
病弱の妹と海岸を散歩しながら名前を考えたので海産物の名前に
なったことは自伝にも書かれている。
やっと長谷川財団の許可が降りたようで、早良区ではサザエさ
んの解説版を百道の旧海岸部に設置するという。そのサザエさん
の磯野家だが、福岡で当時「磯野」といえば日本一と言われた、
「磯野式」の農機具製造販売の磯野鉄工所であり、その発展を築
き福岡市の二代目市長も務めたのは「波平」と一字違いの(笑)
「磯野七平」であった。磯野家は代々「七平」を継ぐ。
波平に「平」の字がついたのは、ひょっとしたら七平の影響が
あったのか?と勝手に解釈を楽しんだりする。七平は西鉄などの
前身にあたる博多電灯の創始、土居銀行など銀行創始も数多く、
博多港全体の開発の必要も説き開発会社を創始するなど、明治期
の博多に多大な功績を残す。長谷川町子在福時の七平も、福博の
町で役職を数多く持ち、著名人であった。磯野家の跡地が現在の
冷泉公園である。
博多湾の開発に沿い、博多湾鉄道は大正初期に開通。路線網は
当時隆盛を極めた勝田・志免などの糟屋炭田を西戸崎で積み出す
経路として香椎線を設置。一方の新博多から宮地岳までの路線は
宮地岳神社参拝の主交通手段として設置された。唯一の海軍直営
炭坑であった志免は、戦前の軍艦などの燃料を賄っていた。その
遺物は今も立坑櫓とボタ山が残り、産業遺産として見守り保存さ
れている。
余談だが、長谷川は自伝の中で、当時の博多湾鉄道「新博多」
駅から香椎まで叔父の家に行った際のエピソードなどを書いてい
る。写真掲載した「博多湾鉄道」鳥瞰図は、子どもだった長谷川
が湾鉄を利用した頃に描かれた初三郎作品で、福岡市博物館には
絹本原画が収蔵されている。
博多湾鉄道はその後、昭和17年に戦時下企業整備によって西日
本鉄道となり、新博多から貝塚までの区間は地下鉄箱崎線開通に
合わせ廃止された。残りが現在宮地岳線として存続していたが、
今週で宮地岳線の名称は消える。
今日も天気が良かったので昼から娘を誘って、廃止区間の電車
を撮影に行った。19日から走っているさよなら車両も撮影した
かったのだが、辛うじて福間駅で撮影できた。鉄道ファンはこの
日もたくさん撮影に訪れていた。