昨日2007年3月31日は西鉄宮地岳線の一部廃止を含め、島原
鉄道の口之津区間や鹿島鉄道など各地で廃止が相次いだ。吉田初
三郎が鉄道沿線図を描いている歴史ある鉄道ばかりである。
福岡市では、鉄道以外にも永年市民に親しまれた施設の閉館が
相次いだ。博多駅の建て替えに絡み41年間、駅の顔として親しま
れた博多井筒屋をはじめ、地下の食堂街「一番街」などが営業を
終了。これで大正12年の松葉屋呉服店、大正14年の福岡玉屋の
開店に始まる、博多のデパートの歴史は潰えた。
最盛期には、呉服町の大丸、中洲の玉屋、瓦町の渕上(のちユ
ニード)、現博多駅の井筒屋(駅開業当初は大光百貨店)と4店
あったことが嘘のようである。1999年の玉屋閉店後、わずか8年
余りの間に、大丸跡に入居していた寿屋も含め次々に姿を消して
いった。
今日の写真は、博多井筒屋が進出する直前の博多駅屋上から大
博通り、旧博多駅のあった祇園町方面を望む写真である。山本旅
館(冷泉町)の先代が映した貴重な写真だ。
それ以外にも、天神地区の大型書店の先がけであった紀伊国屋
天神店も同日で閉店。約30年の歴史に幕を下ろした。私も学生時
代から20数年、紀伊国屋にはお世話になった。美術書や専門書は
この書店でないと揃わない時代が最近まで続いたが、そういえば
最近は隣接ビルに入る丸善やジュンク堂に行くことが大半であっ
た。以前は天神へ出ないと揃わないものが多かったが、博多駅エ
リアに紀伊国屋やアオイ書店など大型店が進出したことで、行く
必要性も薄れていたが、いざ無くなると寂しいものである。
また、演劇やコンサート好きの私が学生時代から行くことが多
かったホールが、メルパルク福岡(旧郵便貯金会館)だった。今
では地元でもないのに福岡市のイメージソングを唄うまでになっ
た、埼玉出身のスターダスト☆レビューの最初の中規模ホールの
会場がメルパルクだったと記憶する。ライブハウスからホールに
なって、昭和60~62年頃までメルパルクだったと思う。
その後、バンドが次第に人気が出ると福岡でのライブはサンパ
レスなどのより大きなホールとなり、ライブの中身も変化してい
った。コントにも近い軽妙なトークと洒落た演奏スタイルが楽し
めた、メルパルク時代のスタ☆レビのライブが懐かしい。ここも
31日で閉館となった。
この数ヶ月で、博多の街はさらに変化が続く。中洲入口に昭和
20年代から建つ花の関ビルも建て替えである。花の関は福岡の
銘酒。ビルには久留米から進出してきたKBC朝日放送が永きに
わたり本社を構え、KBC会館建設後もラジオ部門などが2年前
まで入っていた。戦後の絵葉書の顔でもあった。
隣接する中洲大洋は、最盛期に21館を数えた中洲最後の映画館
であるが、区画が花の関ビルと同じため、一帯開発の話もあった
ようで無くなるのではと、一人でヒヤヒヤしていた。朝の勉強会
で9年お世話になっている試写室もこの一角にある。
対岸にある毎日新聞ビルに入る東急インも退店が決まっている
と聞く。ビルや店舗の撤退とともに、広告塔も街の景観を彩って
いるが、戦後永く春吉橋たもとにあった雪印の広告塔が消えたの
は昨年であった。中洲大洋ビルに同じく昭和20年代初頭から続い
たサントリーの看板も昨年5月で契約切れとなった。
新博多駅の開発に伴い、旧博多部の冷泉・祇園地区も再開発が
ラッシュとなっている。ここ数年で高層ビルが相次いで建ち、景
観そのものが大きく変化しそうである。私はそれら変わりゆく風
景を可能な限り記録写真に留め続けている。
鉄道の口之津区間や鹿島鉄道など各地で廃止が相次いだ。吉田初
三郎が鉄道沿線図を描いている歴史ある鉄道ばかりである。
福岡市では、鉄道以外にも永年市民に親しまれた施設の閉館が
相次いだ。博多駅の建て替えに絡み41年間、駅の顔として親しま
れた博多井筒屋をはじめ、地下の食堂街「一番街」などが営業を
終了。これで大正12年の松葉屋呉服店、大正14年の福岡玉屋の
開店に始まる、博多のデパートの歴史は潰えた。
最盛期には、呉服町の大丸、中洲の玉屋、瓦町の渕上(のちユ
ニード)、現博多駅の井筒屋(駅開業当初は大光百貨店)と4店
あったことが嘘のようである。1999年の玉屋閉店後、わずか8年
余りの間に、大丸跡に入居していた寿屋も含め次々に姿を消して
いった。
今日の写真は、博多井筒屋が進出する直前の博多駅屋上から大
博通り、旧博多駅のあった祇園町方面を望む写真である。山本旅
館(冷泉町)の先代が映した貴重な写真だ。
それ以外にも、天神地区の大型書店の先がけであった紀伊国屋
天神店も同日で閉店。約30年の歴史に幕を下ろした。私も学生時
代から20数年、紀伊国屋にはお世話になった。美術書や専門書は
この書店でないと揃わない時代が最近まで続いたが、そういえば
最近は隣接ビルに入る丸善やジュンク堂に行くことが大半であっ
た。以前は天神へ出ないと揃わないものが多かったが、博多駅エ
リアに紀伊国屋やアオイ書店など大型店が進出したことで、行く
必要性も薄れていたが、いざ無くなると寂しいものである。
また、演劇やコンサート好きの私が学生時代から行くことが多
かったホールが、メルパルク福岡(旧郵便貯金会館)だった。今
では地元でもないのに福岡市のイメージソングを唄うまでになっ
た、埼玉出身のスターダスト☆レビューの最初の中規模ホールの
会場がメルパルクだったと記憶する。ライブハウスからホールに
なって、昭和60~62年頃までメルパルクだったと思う。
その後、バンドが次第に人気が出ると福岡でのライブはサンパ
レスなどのより大きなホールとなり、ライブの中身も変化してい
った。コントにも近い軽妙なトークと洒落た演奏スタイルが楽し
めた、メルパルク時代のスタ☆レビのライブが懐かしい。ここも
31日で閉館となった。
この数ヶ月で、博多の街はさらに変化が続く。中洲入口に昭和
20年代から建つ花の関ビルも建て替えである。花の関は福岡の
銘酒。ビルには久留米から進出してきたKBC朝日放送が永きに
わたり本社を構え、KBC会館建設後もラジオ部門などが2年前
まで入っていた。戦後の絵葉書の顔でもあった。
隣接する中洲大洋は、最盛期に21館を数えた中洲最後の映画館
であるが、区画が花の関ビルと同じため、一帯開発の話もあった
ようで無くなるのではと、一人でヒヤヒヤしていた。朝の勉強会
で9年お世話になっている試写室もこの一角にある。
対岸にある毎日新聞ビルに入る東急インも退店が決まっている
と聞く。ビルや店舗の撤退とともに、広告塔も街の景観を彩って
いるが、戦後永く春吉橋たもとにあった雪印の広告塔が消えたの
は昨年であった。中洲大洋ビルに同じく昭和20年代初頭から続い
たサントリーの看板も昨年5月で契約切れとなった。
新博多駅の開発に伴い、旧博多部の冷泉・祇園地区も再開発が
ラッシュとなっている。ここ数年で高層ビルが相次いで建ち、景
観そのものが大きく変化しそうである。私はそれら変わりゆく風
景を可能な限り記録写真に留め続けている。
本文でも解説していますが、掲載写真は博多井筒屋入居直前、昭和41年春の博多駅前の光景です。現在、福岡朝日ビルのある場所の工事が始まっています。一二三パチンコが朝日ビルの場所に見えます。また後方では鉄骨工事が始まっており、これは福岡スケートリンク、博多体育館の建設です。一二三パチンコの左手にはヒロカネがあります。朝日ビル、ホテルステーションプラザの開業は昭和45(1970)年2月です。当時はまだ博多駅ビルの右側にはホテルニューハカタが入っていました。
2月に地域からの依頼で旧冷泉校区(冷泉・祇園・川端・中洲・店屋)の戦後史をまとめました。のべ70日におよぶ聞き取り調査で提供された3千点の当時の貴重な写真で、記念の写真集(非売品)も作り地域へ配られました。
本文をきちんと読んだつもりでしたが、大切な点を見落としていました。申し訳ありません。私が駅前に住んでいたのは、昭和44年(44年4月~45年3月)ですので、写真はその3年前ということになりますね。この写真の角度からみえるところに、昭和43年頃に、父が勤務する会社の博多支店ができました。私は、その上にあった社宅に住んでいました。近くには、「花馬車」というちょっと豪華そうな喫茶店がありました。毎日、その喫茶店の横を通り、駅前の地下街をぬけて、駅裏にある小学校に通っていました。駅裏も、まだ空き地だらけだったような記憶があります。こんなことを書いていると、その駅裏にあった「山笠」という居酒屋へ父に連れて行ってもらい、フグ刺を食べさせてもらったことも急に思い出してしまいました。
おまとめになったお仕事、すばらしいですね。これか地域づくりの基盤となる、貴重な作品であり資料だと思います。チャンスがあれば、ぜひ拝見したいものです。
花馬車はバブル期に姿を消したようですね。当時の住宅地図を見ると、それらは名称が記載されています。今は西鉄バスの基地とホテル・西鉄インが建つ場所は、当時はおたふくわた本社+工場ですね。西鉄イン2Fロビーには私が手がけた、吉田初三郎「福岡市鳥瞰図」壁画が飾られています。
堅粕小の鉄筋校舎は当時のままだと思います。生徒数の減少は博多部やその周辺で顕著で、博多部では10年前に冷泉・奈良や・大浜・御供所の4つをまとめ、博多小となっています。堅粕小も200人を切ってさらに減少傾向です。