記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

3月末で無くなった福博の老舗たち

2007年04月01日 18時53分25秒 | まちづくり
 昨日2007年3月31日は西鉄宮地岳線の一部廃止を含め、島原
鉄道の口之津区間や鹿島鉄道など各地で廃止が相次いだ。吉田初
三郎が鉄道沿線図を描いている歴史ある鉄道ばかりである。

 福岡市では、鉄道以外にも永年市民に親しまれた施設の閉館が
相次いだ。博多駅の建て替えに絡み41年間、駅の顔として親しま
れた博多井筒屋をはじめ、地下の食堂街「一番街」などが営業を
終了。これで大正12年の松葉屋呉服店、大正14年の福岡玉屋の
開店に始まる、博多のデパートの歴史は潰えた。

 最盛期には、呉服町の大丸、中洲の玉屋、瓦町の渕上(のちユ
ニード)、現博多駅の井筒屋(駅開業当初は大光百貨店)と4店
あったことが嘘のようである。1999年の玉屋閉店後、わずか8年
余りの間に、大丸跡に入居していた寿屋も含め次々に姿を消して
いった。

 今日の写真は、博多井筒屋が進出する直前の博多駅屋上から大
博通り、旧博多駅のあった祇園町方面を望む写真である。山本旅
館(冷泉町)の先代が映した貴重な写真だ。

 それ以外にも、天神地区の大型書店の先がけであった紀伊国屋
天神店も同日で閉店。約30年の歴史に幕を下ろした。私も学生時
代から20数年、紀伊国屋にはお世話になった。美術書や専門書は
この書店でないと揃わない時代が最近まで続いたが、そういえば
最近は隣接ビルに入る丸善やジュンク堂に行くことが大半であっ
た。以前は天神へ出ないと揃わないものが多かったが、博多駅エ
リアに紀伊国屋やアオイ書店など大型店が進出したことで、行く
必要性も薄れていたが、いざ無くなると寂しいものである。

 また、演劇やコンサート好きの私が学生時代から行くことが多
かったホールが、メルパルク福岡(旧郵便貯金会館)だった。今
では地元でもないのに福岡市のイメージソングを唄うまでになっ
た、埼玉出身のスターダスト☆レビューの最初の中規模ホールの
会場がメルパルクだったと記憶する。ライブハウスからホールに
なって、昭和60~62年頃までメルパルクだったと思う。

 その後、バンドが次第に人気が出ると福岡でのライブはサンパ
レスなどのより大きなホールとなり、ライブの中身も変化してい
った。コントにも近い軽妙なトークと洒落た演奏スタイルが楽し
めた、メルパルク時代のスタ☆レビのライブが懐かしい。ここも
31日で閉館となった。

 この数ヶ月で、博多の街はさらに変化が続く。中洲入口に昭和
20年代から建つ花の関ビルも建て替えである。花の関は福岡の
銘酒。ビルには久留米から進出してきたKBC朝日放送が永きに
わたり本社を構え、KBC会館建設後もラジオ部門などが2年前
まで入っていた。戦後の絵葉書の顔でもあった。

 隣接する中洲大洋は、最盛期に21館を数えた中洲最後の映画館
であるが、区画が花の関ビルと同じため、一帯開発の話もあった
ようで無くなるのではと、一人でヒヤヒヤしていた。朝の勉強会
で9年お世話になっている試写室もこの一角にある。

 対岸にある毎日新聞ビルに入る東急インも退店が決まっている
と聞く。ビルや店舗の撤退とともに、広告塔も街の景観を彩って
いるが、戦後永く春吉橋たもとにあった雪印の広告塔が消えたの
は昨年であった。中洲大洋ビルに同じく昭和20年代初頭から続い
たサントリーの看板も昨年5月で契約切れとなった。

 新博多駅の開発に伴い、旧博多部の冷泉・祇園地区も再開発が
ラッシュとなっている。ここ数年で高層ビルが相次いで建ち、景
観そのものが大きく変化しそうである。私はそれら変わりゆく風
景を可能な限り記録写真に留め続けている。
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5 コメント

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コメントありがとうございました (わきた・けんいち)
2007-04-01 23:35:04
mapfan01さん、拙ブログへのコメントありがとうございました。さて、このエントリーの写真についてですが、場所は博多駅前でしょうか。また、時期はいつ頃のものでしょうか。ご教示いただければ幸いです。1969年、1年間だけ博多駅前に住んでいましたが、どうもその雰囲気がするものですから…。当時、私の叔母は、中洲の玉屋に勤めており、よく母からおつかいに行かされました。今から思えば、たいした距離でもないのですが、当時は、それなりの距離があるように感じていました。
返信する
写真は昭和41年(1966)です (mapfan01)
2007-04-02 13:44:17
わきたさん、書き込みありがとうございます。
本文でも解説していますが、掲載写真は博多井筒屋入居直前、昭和41年春の博多駅前の光景です。現在、福岡朝日ビルのある場所の工事が始まっています。一二三パチンコが朝日ビルの場所に見えます。また後方では鉄骨工事が始まっており、これは福岡スケートリンク、博多体育館の建設です。一二三パチンコの左手にはヒロカネがあります。朝日ビル、ホテルステーションプラザの開業は昭和45(1970)年2月です。当時はまだ博多駅ビルの右側にはホテルニューハカタが入っていました。

2月に地域からの依頼で旧冷泉校区(冷泉・祇園・川端・中洲・店屋)の戦後史をまとめました。のべ70日におよぶ聞き取り調査で提供された3千点の当時の貴重な写真で、記念の写真集(非売品)も作り地域へ配られました。
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Unknown (Unknown)
2007-04-03 13:37:03
mapfan01さん、こんにちは。
本文をきちんと読んだつもりでしたが、大切な点を見落としていました。申し訳ありません。私が駅前に住んでいたのは、昭和44年(44年4月~45年3月)ですので、写真はその3年前ということになりますね。この写真の角度からみえるところに、昭和43年頃に、父が勤務する会社の博多支店ができました。私は、その上にあった社宅に住んでいました。近くには、「花馬車」というちょっと豪華そうな喫茶店がありました。毎日、その喫茶店の横を通り、駅前の地下街をぬけて、駅裏にある小学校に通っていました。駅裏も、まだ空き地だらけだったような記憶があります。こんなことを書いていると、その駅裏にあった「山笠」という居酒屋へ父に連れて行ってもらい、フグ刺を食べさせてもらったことも急に思い出してしまいました。

おまとめになったお仕事、すばらしいですね。これか地域づくりの基盤となる、貴重な作品であり資料だと思います。チャンスがあれば、ぜひ拝見したいものです。
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すみません (わきた・けんいち)
2007-04-03 13:37:44
↑のコメント、名前とタイトルを忘れていました。申し訳ありません。
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博多駅前 (mapfan01)
2007-04-03 19:23:11
わきた様、コメントありがとうございます。
花馬車はバブル期に姿を消したようですね。当時の住宅地図を見ると、それらは名称が記載されています。今は西鉄バスの基地とホテル・西鉄インが建つ場所は、当時はおたふくわた本社+工場ですね。西鉄イン2Fロビーには私が手がけた、吉田初三郎「福岡市鳥瞰図」壁画が飾られています。

堅粕小の鉄筋校舎は当時のままだと思います。生徒数の減少は博多部やその周辺で顕著で、博多部では10年前に冷泉・奈良や・大浜・御供所の4つをまとめ、博多小となっています。堅粕小も200人を切ってさらに減少傾向です。
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