3/19週(第25週)のNHK連続テレビ小説「わろてんか」は、戦時下で全国12カ所の花月劇場が次々と閉鎖になる昭和19年春頃が描かれています。史実では花月劇場の火を消さないために林正之助(吉本せいの実弟・吉本興業社長)が、福岡で新聞や月刊誌「博多春秋」を発行していた西口紫暝氏と共同で「九州興業」を設立し、東中洲に「福岡花月劇場」と「福岡花月劇団」を創設した頃です。
新喜劇(新演劇)も創作上映され、吉本所属の芸人の多くも博多に進出して博多人たちの喝采を浴び、戦中戦後に演芸人が活動存続する一助になりました。当時創作された「博多」版新喜劇の検閲済台本のいくつかは、早稲田大学演劇博物館に収蔵されています。
それらの下りは吉本興業の年史にもまったく記載がないものの、林正之助と福博演芸界とのつながりはその後も続き、昭和30年代以降に博多にわか師をはじめとする演芸・演劇人が続々と東京・大阪に進出するきっかけになりました。
博多にわか師の中でいち早く中央進出する博多淡海(二代目)は一時、吉本興業で座をもち、その後に松竹新喜劇の藤山寛美さんに誘われて本格的に新喜劇&TV進出を果たします。淡海の息子(三代目)が、吉本新喜劇で昭和50年代に間寛平さんと共に活躍した木村進さんであることは以前にも書きました。
昭和50年代に刊行された咲山恭三著「博多中洲ものがたり」や西口紫暝編纂発行の月刊誌「博多余情」などに、当時の関係者証言や活動の断片が記載されており、これら経緯と逸話をまとめて「博多にわかと新喜劇」の題で書籍化できないかの検討を始めました。
昨年秋、博多仁和加振興会の方々と交流を始めて長編の「段もの仁和加」が松竹新喜劇と深い関係があることが判ってからは、時間をみつけて当時の貴重な文章のデジタル化を進めていて、福岡の演劇関連資料を含む膨大な資料群とともに、どう纏めてどう発表するかは今年の検討課題です。
※喜劇の歴史については松竹新喜劇「喜劇百年の歴史」等に詳しく紹介されています。
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