marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(582回) 映画『この世界の片隅で』と『野火』を見た(八月になると思い出すこと)

2019-08-09 06:00:41 | 日記

 また、戦争の記憶を呼び起こす8月となった。1945年8月6日広島に、そして8月9日に原子爆弾が落とされた。毎日、ネットでニュースを見ているけれど、「今日はその日である」ともっと大々的に訴えてもいいのではないかと思うけれど、気にとめない人はそのままの日常を行き過ごしてしまうのではないかと思われるほど、それが流れないのは何故なんだろう。

◆そんな中、今週、2件戦争に関する映画をBSで見る機会があった。「この世界の片隅で」と「野火」である。「この世界の片隅で」はアニメーションなのだけれど、日常の生活が素直に淡々と描かれて、戦時中、広島の呉に嫁いだ”すず”という女性の半生が描かれる、最後にそこから広島に落とされた原爆の様子が描かれる。淡々と自分の人生を受け入れて素直に生きていこうとする姿が、今の世の中から考えているからなのか、実に切なく思えて仕方がなかった。当時の人々の生活はそのような毎日だったのだ。核は、敵味方などに関係なく人類の愛憎劇土台自体を完全に破壊する。

◆「野火」は大岡昇平の小説である。塚本晋也監督は、少しリアルそのものなのだと文句が言えない程に(グロテスクに)、兵士の死、戦争の悲惨を描いている。生き延びる為に自分らの兵をも殺して食うという極限が、これはフィクションで無く事実だったということは、映画ほどにもは無かったかもしれないが大岡昇平の体験から分かる。塚本晋也監督は、あの映画「沈黙」で村の隠れキリシタンの役で、荒磯に建てられた十字架に貼り付けにされ、満潮になり溺死させられるという刑に掛けられるという配役で出ておられた。

◇八月になると、いつも思い出す。

お袋の自分の兄のこと。お袋は23歳の若さで中隊長となり中国山西省太原で連帯を引き連れて終戦間際に亡くなった兄のことをよく話してくれた。全国の高校から優秀学生が選ばれて天皇陛下に接見する機会に預かり、宮城でのお言葉の時は涙がとまらなかったと話していたと。こういう親族が居るとお袋のでは代々、兄のことが語り種となり一目置かれたそうである。全国から選ばれたというその名簿は記録にあることだろうから見てみたいな。お袋の父親、兄の父親でもあるが、昔、そのちょび髭をはやしたその父親が軍服に身を固め、足を広げ椅子に座り、股の間に立てた軍刀の柄に両手を組んで映って撮られた写真を見たことがある。早くに連れ合いを亡くし連れ子のある後妻をもらって子どもが増えて、家は貧しかったようで、兄は大学に行きたかったが、当時はみなそうだが優秀な兄も戦争にいって亡くなった。当時、親族を戦地に送ることは当然、名誉な事とされていたから。・・・しかし、

◆他方、僕の父親方の爺さんは、僕の親父も若者らが誰しも憧れた戦争勇者に鼓舞されて兵役の試験場に行ったその場に「母危篤すぐ帰れ」と嘘の電報をうち、試験をやめさせたと。僕の親父は試験場に駆けつけた爺さんにかなり頭をぶん殴られたらしい。「命を粗末にするな」と。僕をかわいがってくれた田舎のその爺さんは、樺太に渡り、の人を呼び寄せ多くの仕事を与えたそうである。それで、樺太から帰る時はの人みんなが提灯をもって出迎えたという話を聞いている。このブログを読むみなさん。どうか自分の中のDNAを引き継いできた昔の世代の人々がどういう人生を歩んで、自分の命まで繋げてきたか、この時期に考えて欲しい。この爺さんは、よく囲炉裏の前に座って、毎日、まめに辞書を引きながら日記をつけていた。樺太から引き上げてから自分で建てたというあの木造の家に、僕はその田舎の家で生まれたのだが爺さんの座っていた背後の壁には、何処で手に入れたのか分からないが僕の生まれる前から、ミレーの「晩鐘」の絵が掲げられていた。親父の仕事で僕の一家が田舎から離れて暮らすようになった。僕が小学生に上がり、飛行場の絵を描きそれを送ると囲炉裏の自分の座る壁の後ろに貼ってくれていた。そして、僕が親父にもらった小さな英語の辞書を爺さんにあげると喜んでもらってくれた。反体制側にも立っていたであろう僕をかわいがってくれた爺さんは、あの時代「アメリカには自由がある」と何とは無く語っていたように思えてならなかったのである。

◇樺太から帰ってくる時、あの事件、北海道に引き上げる貨物船がソ連潜水艦で撃沈され1700名をも犠牲者を出したという事件に遭遇したのだ。三船殉難事件と呼ばれている。家財道具一式を積んだが人が満員で乗れなかった爺さんと親父は結局そのあとの船にのり命だけは助かったと。このとき親父が死んでいれば、僕は今、こうして生きてはいない。・・・続く