◆その先生はご健在でもあるし、これを他の関係者が読まれるかもしれませんから、お名前も著作名も詳しくは書きません。しかし、その先生の本には、僕がほとんど読んで知っている先生方が天皇制についての考えや戦争責任について、何故はっきりしないのか、今までのことも勉強していないし読んでもおらんと実名を書いてきつく批判されておられてましたね。(そもそも批判で優位性を語るのは頭の優秀さも確かならその人間性の気質からくるのものではないかとこの本の後書きで思わされた次第でしたが。他のことでも批判していて、それが勉強意欲の引き金になっているようなタイプ)。
◆僕の考えは、この国の天皇制のあり方という形態について、内容を先においてもヒエラルキー(元々は聖職者の支配構造が由来)のような階層は必要なことではないのか、これはあくまで人という生き物として、ということです。あくまでこの日本の国の天皇制は国の成り立ちとして(人権どうのこうのは別に)理想型に近いのではないのか(はっきり言えば理想型に近い形にしようとしてきた古代日本国の形成期にそうしようと努力してきた?人々がいた)ということだったと考えているのです。戦争責任のことは、その天皇制どうのというよりそれを政治と神を混在させる取り巻きの詰まるところどこまでも人の問題なのであるということ。かの伊藤博文が「欧米のキリスト教に対して我が国は皇室あるのみ」と”あらひと神”にして国民を洗脳してしまったことが誤りであったことで、そこを第一に猛烈に批判すべきであったのだ。そこで僕は質問したのだ。現在の天皇がほとんどの国民に受け入れられることをひっくり返すことはできないだろうと(ずいぶん粗っぽい言い方だが)。
◆先生にとられて、理想型のあるべきすがたの国の成り立ち、ありようというのはどこかにあるでしょうか?と。答え「ありません」ということだった。「ありますよ、バチカン国です。」などとはやはり間違っても言わなかった。・・・僕はそれ以上何も言わなかった。・・・・実のところ思っていたことは「先生それではいけないでしょう。現実に理想型がないならどういう国のありようが必要なのか言わないのなら何でも言える。真逆から言えばyoutubeでも見られるが、三島由紀夫が檄を飛ばしているいるのと変わらないのではありませんか」と。 ・・・続く