◆7月20日のブログに平田篤胤のことを書いた。師と仰ぐ本居宣長よりは、篤胤が断然改善された解釈したと思われる「あの世とこの世」のことを書いた「玉襷(たまだすき)」に霊魂のことが書かれていて、こういう内容がこの日本のお盆の時期に係わらず、あの時代、大ヒットした理由なのだろうなという記事があるので記録しておきたい。さて、新約聖書にてニコデモというイスラエルの教師がイエスに「この地上で起こっていることが分からなければ、天上で起こっていることはなおさら分からないだろう」とお叱りを受けた、その「この地上のこと」を篤胤はそもそも語っていたのではなかったのか・・・などと思ったりしてみた。
◆「すべて霊魂というものは、『霊能真柱(たまのみはしら)』でも述べたように、永遠につきることなく、消えることもなく、墓でも祭り屋でも、祭る場所に必ずいる。それは、顕と幽とのへだてがある故に、こちらからはその姿を見ることができない。また向こうからこちらに親しく言葉をかけることは、基本的にはしないのだが、時によっては亡くなった人が姿を現し、諭すことなどもあるから、ここをよく心得、わきまえねばならない。通常、その場所に姿が見えないからといって、決して、魂は消えてなくなったなどとは思わずに、先祖代々は言うに及ばず、家に付いている霊魂を特に大切に心得て、他の神々への礼拝は欠かすことがあっても、先祖への拝礼だけは朝夕に油断なく、大切にすべきである。」(『玉襷(たまだすき)』十之巻)
◆しかし、考えてみれば、イエスはこのようなことは当然地上では起きていることであって、それゆえに多くのまとわりつく霊障に囚われている自分に気がつかず困難を生じていることにNO!をつきつけ、つまり地上に遣わされたイエス自身を信じ、人が信じたその一度きりの生涯で永遠の世界へ導いているのであるということが「救い」ということで書き表されているのであると。つまりは、霊障のまとわりつく不完全な肉体という人の身代わりとなり十字架に架かったのであると。だから、仏教のように何回忌などという、つまりこれは地上にうろついている先祖の霊の供養と言うことになるのだろうから(だから生まれ変わりなどが起こるということになるのだが)、そのようなことは全く無い!ということである。「生きてわたしを信ずる者は死ぬことが無い」とイエスが話されたのはそういうことなのである。事実、彼を信じた者は肉体は死んでも霊として眠り、永遠に生きる新しい霊の体で目覚め復活するのであると。第一、地球が壊れてもそういう人達は生きるのである。天上界のすべてを創造された方の元へいくのだからとはっきり述べられている。・・・Ω