◆どうして、学校教育では「人(全体)」というもの、その中でもとくに脳のことを教えないのだろうか。人の体のつくり、消化器官などの動物としての機能機関は教えるけれど、所謂、ソフトの部分、その先のパソコンのCPUで言えば、人は同じ基盤配線が描かれているのにoutputが異なってくるという部分の原因。考える対象が自分という肉体であるのに、しかも司令塔となる「脳」に影響をあたえる様々な要因を。それは、生涯を通して付き合う相手なのに、そう思ったことはないだろうか? そういうことがなくとも、それなりに人生を経てきた者は”あいだみつを”の「人間だもの」などという言葉になんとなく納得したりする。しかしそれは、人が事をなした後の結果系に対してである。そうではなくて「人」が事をなす前の、しかも「成長期の人」そのものが考えると言うその基盤、ソフトについてである。そのものづくりで言えば”事前予知”である。◆オードリー・タンさんが成績がいつも一番で、子供時代たいそういじめにあったということだった。その克服方法、最終的には転校するのであるが、彼は心理学、モンテッソーリ(教育)やピアジェ(心学者)の本を読み、「なぜ、人はいじめをするのか」を学んだそうである。「人とは何か」を考えたひとつ上を行っていたわけだ。僕は、おぉ、モンテッソーリ、ピアジェかと、ちょっと感激。いじめをする集団は、劣勢になる恐れを持ち弱いのであると、納得したという。◆人は、ひとつ上の階層の言葉を持つと納得し、安心するものだ。それは、人が他人という異なる環境で育ち、考えの異なる集団の歴史の中で、多くの困難を体験し克服していこうとする、それが結局は人格思考のレベル、ひいては社会への平和にも貢献し、よりよい社会になると、また話を飛躍すれば、「神は自分の似姿に人を創造した」(創世記1:27)その「人」を知れば、その似姿のもといの神を知ることに少しでも近づこうとすることなのであろうと思うである。「人」のことを知るために多くの言葉が書かれてきた。どんなことがあっても落胆しめげることはない。誰かが今までに悩んで解決策を言葉に残して来てくれているのである。