◆それはイエスが語った種まきの例え、”自分の根”がないから神の言葉が語られても、逃してしまうという話。(マルコによる福音書4章17節) 今風に言えば、神の独り子と言われたイエスは、われわれ人が創造された意味とそのシステムを理解し、信ずる人に開示した。正しく言えば、開示されていて信じる人が現れる。・・・そういう意味で、世界のベストセラーの言葉は、この刻々と動いている「場」に現存するが、我々には分からない(感受して分かる人もいるが、ほとんどは分からない)。「異界」の世界にも通じていて、イエスはその方面からも語られるのである。だから、ただ読んでも分からない部分がある。この世の次元で読めば非常に理解に困難な言葉がある。ましてや旧約はなおさらである。◆だから、読むには、今、この場に、この時点で、この時間、で静止して、彼の声を聞かねばいけない。第一、霊に関することなので注意しないといけない。どれもが、僕らには分からない言葉が多いが、すべての人に関係しているものだしおかしな霊というのも入り込んでくるものだから。これも同じ例えの中にある。◆仏教における坐禅も同じようだ。ただ、そこでは言葉にする(意識下に置く)ことも雑念と言われる。その所作の中に、その「場」に仏の(神の)声を観応する。「観」であると言われる。
◆雑念が入らぬよう環境を整え、体調を点検し、静まって止観する。僕の場合は、目を開けているほうが体の平衡とビジュアルな光がものごとを細密に描き出していることに肉体の平衡が保たれるように思われる。脳の中のどこにあるのだろうか、その神の声、仏の悟りへの受信器は・・・・前頭葉と間脳(松果体のある脳中心)の間の”偏とう帯”というあたりに僕はそのありかを感じるのだ・・・。
◆「異界」からは、光の招待もあれば、冷たいと感ずる暗闇からの招待者も顔を出す。後者は、ぬめぬめした黒い輪郭がはっきりしないがサンショウウオのような形をして、黒い瞳で目は黄色、大きく裂けたような口からは長い赤い先の割れた舌👅をヒョロヒョロ出して、よだれをたらしながらくねらせている。空間が裂けて格子戸をあけるようにこちらをのぞき込む。その時、とても寒いと感ずるのだ。そして、心臓の後の背中がとても痛くなる。僕は、そんな時、この地上に落とされてうろつきまわっている悪霊というのが本当にいるんだな、と思ってしまう。