◆「脳」については、未だ解らないことが多いのだが、先に書いたコンピュータメモリの配線の働き、CPUの中の電流の配線に例えられるのではないだろうか。基本回路は、同じだが殆ど天才的と呼ばれる回路の配線がもともと引かれている人と、あるラインが流れにくくなっているか、まったく閉じられ眠っているか、あるいは又、配線の途中から混線しやすいとか、ある環境になると流れやすくなるとか、多々さまざまであろうと思う。この地上に生を受けたからには、すでにいわゆる「人」であって、人格があり、小さな頃は、その環境を整えて成長を見守るのが大人の責務であろうと思うが、少なくともその子の脳の性向を知り、個性を伸ばすようにアドバイス、環境を整えてあげたいものだ。教育とは、出来うる限りその脳の神経系の配線に電流を流そうとする訓練のように思われてくる。◆配線は、知的作業の前頭葉ばかりでなく、運動機能をもつ小脳や、音など物理的応答へのレスポンスばかりでなく、感性、情緒性などの場合など、脳のどの辺が働くのかなどは、昔から調べられてきた。それで、そういうことを理解したとしても、すでに生きて目の前にいる人はどうなのか、に対しては、すくなくとも自分も人であることを、まず認識し「人とはどういうものか」を自分なりに理解して、自分にも、子供にも対応することだと思う。あくまでその子が大きくなって自立、自分の意見を持てるように、そして彼らを次の世界に手放すために。◆ADHD 発達障害、多動性障害の男の子の脳の神経系回路を、楽しいと思わせるスポーツをさせるで神経系を肉体に一度分散し、その運動(スケートボード)に集中遊ばせることにより、基本の神経系回路の配線ルートが錬磨されて基本線が形成されて、極めてまとまもな生活が出来き、自身をもつようになった少年がいる。スケボーは驚くほどうまい。将来はオリンピックに出たいとの夢がある。これは、脳神経系を肉体を司り分散する神経系を意図的に強化していくことができた例であると思われる。◆ところで教育ICT元年であると。子供達にタブレット端末をわたし、自分で調べ表現する力を養う、と言うらしい。しかし、その手段に振り回されることになりはしないか。取り扱いにかなりの格差が出てきはしないか。第一に「脳」ひとつについて見ても、何でも便利に飛び出す画面に第一に反応するのは、思考する前頭葉ではなく光はストレートに後頭部の小脳に届くのである。だから、考える自分と言う軸、自分の<G>を形成することを第一に心がけないと(これは今まで家庭教育によるとされるが)手段に振り回されるだけのこどもが多く育つだけにならないだろうか。