◆25日本格的に雪が降り積もった。'21年クリスマス。道路はのろのろで渋滞であった。クリスマスの時に、聖書の核心に迫る記事を書くのには何らかの意味があるのだろう。霊的次元から聖書を読み解くといっても、その次元事態が不明なので何とも言えない、というのが実際のところで、それがあれこれと言える地上のレベルではかえって悪霊を引き寄せることになるだろう。昔、霊が見えるとTVで宜保愛子という方がいたが、このような人は、泣く子を起こすようなことをしているからあの世で浮かばれない霊に(この地上で浮かばれない霊だからこそ浮遊しているので、その霊は見えるらしいいから、あぁ、怖いなどとやっていたし)まとわりつかれて大変なんではないなかろうか。クリスマスに悪霊なんぞと不謹慎な! しかし、ブログ1000回間近になって世界の不思議な本である世界のベストセラーの僕なりの核心にそろそろ触れていかなくてはいけない。僕らが神聖と思い、しかし、信じることを勧められ、まったく僕らの心の心底では呼びかけされているであろうとの声はかすかに聞こえるが、なかなか足を踏み出せないのは、やはり、後光がでているような如何にも御利益以上の神聖な畏れ多い方ではなく、肩書きがあるにしても如何にも欠現世に陥もありそうな普通の人々が、牧師はじめ一般信者が普通の人のwelcomeと教会に日々誘っておられるという、これを不完全な聖書的に言えば肉なる不完全な人が言葉で行わなければならないという壁があるからなのだ。「あなた方は世において困難がある」とイエスが弟子達に言われたのは、肉体的に試練を受けるというだけではなく、実際、言葉で伝えることの困難と限界、そして誤解の事だ。まさに、イエスが十字架状で叫んだ我らを憐れむ言葉「父よ、彼らを許し給え、彼らは自分たちが何をしているのか分からないです」という全くの地上での思いと判断ができない人類の思考の壁があることに対してなのであった。しかし、求める人よ、第一は自分の言葉で聖書を読むことだ。かなりのひずみを感じるだろうけれど、求める思いに聖霊が必ず時間はかかるかもしれないが答えを与えてくださるであろう。そのひずみはまさに、現存する異界の霊的次元の入り口なのである。◆使徒信条と言われる世界中のキリスト者が毎週告白するであろうその中の文言「生ける者と死ねる者を裁き給わん」とある。聖書の中にも頻繁に出てくる永遠に「生きる」とか、「死者は死人に葬らせよ」などという言葉は、「生きるとは神の霊と繋がっている者」であるし「死んだ者とは、神との霊的繋がりがなく、肉体が消滅すればそのまま、死後、霊も消滅するに運命にあるひとのことで、死人に葬らせよとは、そういう死人は同じ死ぬべき類いの人に処置をさせよ」ということになる訳である。イエスが「新たに生まれること」を、霊は浮遊し実際これが地上で起こっていることを、イスラエルの教師ニコデモに”風”に例えたのであった。十字架に掛かったイエスを信ずる、それが自分の為であったと同期する思いに我らは、その自分の肉体がこの地上の命が終わるときも、イエスが復活したように、ますます本当の自己に覚醒し、喜び持って霊的リアリティーを持って復活するということなのである。私が誰かれの肉体に転生するのではなく、まったく新しい自分となって、永遠の命に(これが実に他の宗教と違い、私が永遠にいるとの自覚がなされるからこそ)生きることが出来るのである。天国に行きたいと願う人々も、自己意識が明確でなくてどうしてパラダイスにいると自覚できるであろうか。キリストを信じた者はそれこそがあると言っているのである。それが永遠の命である。あのルターは、永遠の命についてヨハネ伝とガラテア信徒への手紙を読めと言っている。地上の一切の人の言葉を断絶することをことを心がけ自分の言葉で読め! 必ず神の声が聞こえてくるであろうと僕は信ずる。現世にある霊的次元からの読み解きが、不可解な聖書の言葉の意味を明らかにしてくれるのである。次回から2~3の記事を読んでみよう。2021年クリスマス。