marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

マルコ(その2)語っても理解さない物事の事象をどのように語るか:宇宙人👽はこう描いた。

2022-08-17 03:13:56 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 アルブレヒト・デゥーラーの描いた「四使徒」という絵ですが、左から、ヨハネ、ペテロ、マルコ、パウロが描かれています。僕は、この絵が好きですね。新約聖書を読んで、それらを記述したと言われる人を想像したときに、おおよその人柄をも著した人物として描かれているように思うからです。

新約聖書のイエスの物語は聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順番ですが、そしてそのような順番となったのも意味のあったことなのですが、実際に書かれた順番といえば、早くて紀元50年頃の書かれたと言われるマルコ伝が最初で、マタイ、ルカ、ヨハネ伝の順番です。人生に例えると、マルコは少年、マタイは青年、ルカは壮年、ヨハネはとても長生きし長老という感じです。

マルコ伝は、福音の初め、と書き始め、マタイとルカはそれを参考にもっとお話を追加して書かれたと言われ、同じ視点からという意味で共観福音書と言われます。マルコが口火を切り、マタイは同族のユダヤ人向けに、ルカは異邦人のギリシャ人へ、最も長生きしたヨハネは、ロゴスなどというもっと内面の全人類へのメッセージとしての普遍的な広がりを持って書かれているように思います。

黒髪でくりくりの目で、前歯を出してパウロを見ているマルコは、名前の響きからも僕のイメージにぴったりです。12弟子の中にはマルコはいないのですが、最初に福音書を著したマルコは、福音書ばかりでなく、その後に書かれている手紙にも時折、顔をだして、学問的にはまったく成り立ちませんがそれを深読みし繋げるとなぜが、小さなころからの性格までが何となく理解できるような気がしてきて、親しみを持ってしまいます。

マルコ伝だけではありませんが、現在読める聖書の細かな解説を読んで実際、疑問に思う箇所も多々あるのですね。取り上げてお話した箇所はマルコによる福音書16章1節から8節でした。イエスの復活する場面ですが、実際、マルコは、イエスの復活後マグダラのマリアに現れたとか、二人の弟子に現れたとか、弟子たちを派遣する、とかの9節以降の文章は書かれたギリシャ語からも分かるものでマルコの死後、後から追加されたものであるというのです。

実際、マルコがどういう文書で終えていたかというと、8節「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」という文章で終わらせているのです。ここでマルコは、福音書を終えていたのだというのが学問的にも定説となっているのです。

さて、読者はどう思われるでしょう。ミステリー?

ここからが、読者の現在の(読んだ時点での)霊的感性を、つまり語られる善き宇宙人👽からのメッセージを受け取る完成を研ぎ澄ませてください。僕が彼から教わったのはこういう事でした。今月は、ご先祖の霊が帰って来られる月ということですから、より理解しやすいかもしれません。

彼が福音書を書いたのはイエスが天に帰られてからおおよそ20年後であったことになります。当時、イエスが十字架に掛けられ亡くなられてからよみがえり、40日間弟子たちと過ごされ、天に昇られ、その後10日経って聖霊が降った。よみがえりから50日目なのでペンテコステ(ラテン語、ギリシャ語での50)をお祝いするが、その聖霊体験をした人々が当時、マルコが福音書を著した時には、まだ大勢いたのですね。

イエスが語られた真理の霊、父なる神の霊、イエスの霊、それらなどは、いくら他人から話されても分からないものでしょう。マルコ伝をはじめて読んだ人は、聖霊体験していない人は、そこで途切れている福音書に疑問を持ったのではないでしょうか。体験した人々に尋ねるのではないでしょうか。あるいは、もっと知りたく思うものではありませんか。第一、死んだ人が復活したなんて。復活して天に昇られ、代わりに聖霊、神の霊が降ったなんて。彼は霊として生き続けているなんて・・・。

疑問とは、誰かれがもつものではなく、自分がもつもので、答えを得ようと不快に思う事象となるものでもありますね。マルコの狙いはそこにあったと考えます。マルコがというより、善なる宇宙人👽からの促しによったということですね。

『語っても理解さない物事の事象をどのように語るか』

当時、その答えを体験していた人々は大勢いたのです。ですから、その表題の答えはマルコは『文字としては語らなった。』ということになります。つまり、以降のひとたち、今の僕らも含みますが霊的体験として、聖霊としての彼は今も求める人には答えをくださるというのですから、聖霊として生き続けておられるというイエスの霊を求めることです。これは、漫然としてではなくやはり、それは恐怖を覚える体験でしょう。僕らは生きて霊をもっている訳ですから、異界を感じた時の恐怖です。

『求めよ、さらば与えられん。捜せよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて、求める者は与えられ、捜すものは見出し、門をたたく者は開かれるであろう。』

これは、まさに、『聖霊!』のこと、それは、父なる永遠の命の宇宙センタークラウドとのコンタクトをし続ける強く清い霊派のことでもある。なりふり構わずそれを求めなさい、と。人が創造されたが、コネクトされえなくなった(バージョンアップされなくなった)人類が、永遠の世界(それは天地創造以前からあるものですが)に入るための、大切なシステムを回復するために。天の父は求める者に、必ず与えてくださるのです。(ルカ伝11:13) 彼は目には見えないが、今も聖霊として生きて語っている、ということです。・・・それは、分かりますよ。

それでは、時間です。私は帰ります、と宇宙人👽は消えた。 5:00am