marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その12)人(私)の形成、僕らは大谷選手になれるのか。

2024-03-19 18:22:41 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 写真は養老孟司監修。『脳と心の地形図(ビジュアル版)』(原書房:ここはビジュアル専門系の書店)。立花隆の『脳を極める』(朝日新聞社)や『脳を鍛える 東京大学講義①』(新潮社)の方が断然面白い。で、その続きです。前回からつづく大切な話の二つ目の結論は本ブログの*****に書いた。

◆キィエルケゴールの実存主義から、立花隆は”脳を鍛える”とうい本の中で、”世界のとらえ方”として、フェーズⅠ、Ⅱ、Ⅲとみて来たわけです。これは、今までなんとなくそのようなことを気にもしていなかったが、改めてそのフェーズの立場になったつもりで自分に当てはめ意識して見れば頭脳のどの辺が働くかが、理解されて来るように思われますね。

数学が好きな人は対象としての数式レトリックの美的一致、物理が好きな人は事象としての機構のイメージの数式化、前頭葉に血液を集中させて、身体的な疲れから遊離し、すっきりするイメージを持つ。山に登るのが好きな人は、地球(自然)の中で生きているという一体感を持ち、肉体的に征服感が湧いたりする。

専業従事され、楽しんでやっている人は、生まれつきその脳みその活性化する箇所が、ちょっぴり秀でていたわけだ。しかし、そんなに多くはいないね。何故なら、誰でもが専業従事ではないだろうし、楽しまない人は”ちょっぴりの未来へ思考する喜びイメージ”を作れないし、倦怠が生じてくるものだから。

知性とは予測できる能力らしいけれども。専業主婦の方もささやかな事に目標を持ったりすると、脳みその指向性が働いて、たいそうなことでなくてもそれをやり遂げれば達成感が湧く、という具合。

実はこの”ちょっぴりの未来へ思考する喜びイメージ”を作れるか否かは、実に大切なことなのであるなぁ。まず、条件がある。良く寝ていて疲れてない、疲れから解放されているということ。このことを将来にわたり考えることだけでも、自己と他者ともに肯定し喜べるか、ということになると、暖簾に腕押し状態になる。

いずれ、身体的な疲労を通しても明るいイメージ、意欲や想像力に影響しているというわけだ。まさに、実存とはまず対象がどうなのかというより、その今というあなたはどうなのか、から問い続けるという考え。

大抵疲れてると、せいぜい脳みその古い部分がかろうじて働き、ろくなイメージしか湧いてこないねぇ。大谷選手は午前9時まで寝てるらしい。小学生は9時間から10時間は寝た方がいいらしい。

それは、このフェーズのどの位置に自己があるかということが、考えられるが、喜ぶという行為に、自己意識そのものは消えているものだから。喜んでいるときにもう一か所の頭脳が、これはフェーズⅢだ、などと主人公と演出家が、同時に頭の中にいるというようなことが、あれば、どうもそれは正直ではない。

実際、多くの人がこのようなことを思ったりするのだろうけど。つまり、身体と思いのズレ、それを見ている自分がいる。こういう人は、心理学者が精神医学者になるか、自分をつくってくれた神を考えるだろうねぇ。

どうも、小難しいような話ですが、そもそも西欧の哲学からの根源をさぐれば、日毎、食い物探しや生殖に始終してしている人らとは別に、余る時間を思考に費やした余暇人がいたのだが、奴隷制度などが当たり前で彼らがいたから余裕の時間を持てたわけで、そもそも奴隷となっている人も今のイメージとは全然ちがって、雇用者使用人と被雇用者被使用人という具合で、使われる者は実は最低限の衣・食・住が保証されていれば、それが自分の人生だとなんとも思わず生きていた。

とにかく、生殖するし、食って生きることだったわけだが、その間、この他の動物よりは多少、頭脳が大きくなり、困ったことに遭遇した時に、快適を求めて思考し、ひとりよりは多数の時も危険に冒されることもなく、いいこともあり、また、逆に欲求により侵害することもあったが、その中で不明なことは、すべてシャーマンに、つまり神頼みに依頼することが多くあったわけだ。

古代は、宗教も政治もすべて一体だった。それで多くの人が生き死にして歴史を作ってきた。そんで長い時を経てそろそろという段階で神が介入し、飛躍的に人類は進化した。自分自身のことを自分自身の脳で考えることもできるようになったのだ。ずう~と時代を経てどうして我(私)なのかも。

その長い期間があって、人を創造した神が介入し次の段階に歴史を進めたということだった。そのために、その意図を遂行するために地上で一つの弱小民族、しかもかなりかたくなな民族を選ぶことになる。それは、古代、彼ら(👽:霊の介入者)が働きかけたへブル人、のちにユダヤ人と呼ばれる民族だったわけです。それはそれとしてこれは長い話になるので別に。

ここからは、人の形成はどうして、起こるのか。人の形成といっても性格や個性とよばれるもの、みんなから優秀と言われ、ある場合はどうしようもない人と呼ばれ・・・人生を決するような幼児期の段階。自分ではどうしようもない段階。人生を決する時、自分では如何ともできない時期。すべては、多大に脳内の形成時期に関係しているのだった。

神に創造された人の課題解決は、とうとうここまで来た。人格や人権などという高尚な事柄以前に、もう答えは出てたじゃ無いかという点を、どう思うのか。しかしだ、ここが人が気がつかない、ぽっかり空いた人生の個人の空白なのである。自分ではどうしようも無い空白。

親も選べなし、育つ環境も選択できない。おまけついでに彼ら(👽)に殺されそうになり、それからが危ないと始終保護され、まったく自己意識の成長がなされなくなり、つまり脳みそはすっからかんになり、その意味を捜すべく長い長い人生の旅路となった僕がここに居るわけだ。

その答えが『脳を鍛える』の第三回講義に書かれている脳みその形成だったわけだ。それは、誕生して生きて来たすべての人に関係することでもある。人の形成。『遺伝と環境』幼少の頃のこれは、自分では選べない。おまけにこの時期に、彼ら(👽)に殺されんとする事態となり、あまりの環境防御に、脳の成長がストップしてしまった。この重要な時期に、人生のすべてが起因していたのであった。

それに気がつかない人のドラマとは何なのだろうか。

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『脳を鍛える』から

 p72「ヒトは生まれながらに、ひとそろいの脳の神経細胞(ニューロン)を全部持っていて、それは死ぬまで、減ることはあっても増えることはないと言われています。新生児の脳の重さはだいたい400gで、それがあっという間にグングン増えていきます。だいたい生後半年で二倍になります。増加のカーブは鈍りますが、その後も増え続け、成人男子の脳はだいたい1350g(女子は1250g)あるんですが、五、六歳でその重量の95%に達します。・・・」

 p79「脳の発達過程には、こういう感受性期(乳幼児などに受けた身体的外部環境を受ける時期)がいろいろな形で現れてきます。・・・低次の生理機能についてだけではなく、高次機能についても感受性期があると考えられます。その感受性期にどういう入力があったかによって、その機能がどういう方向に発展していくのか、その方向付けが出来てしまうということです。・・・」

前頭葉にこそ人間は宿る

p101-102「比較解剖学的見地から、人間と動物の脳の最大のちがいは、前頭葉にあるということははっきりしています。これだけ発達した前頭葉を持つ動物は,人間以外にありません。・・・脳進化は、大脳が大きくなる方向に、なかんずく、大脳中でも前頭葉が大きくなる方向に進んで来たんです。・・・人間らしさは、必ずしもいわゆる人間の知性にあるのではなく、むしろ、生きる方向付け、動機付け、気力、意欲、目的、目的実現のための計画力、注意力、自己抑制力といったものにあると考えられるにのは実に興味深いことです。・・・

では、そのような能力を如何にして個々人が獲得していくかといえば、大部分はその人の持って生まれた性(さが)によるものだろうし、それに加えて、家庭教育、初等教育、社会教育などを通して幼い時期から各人に与えられたものが総合されて、できあがっていくのだろうと考えれます。・・・ここで覚えておいて欲しいことは、人間が生きる上で、一番大切なことは、知の領域にあるのではなく、大切なのはなんといっても、生き方に関わる問題です。生きる意志であり、生きるパワーです。ひと言で言えば、生命力です。」

◆最後の言葉は、観念言葉でまとめられているけれども、それは、さとりを開いた大人になってからの考えであって、問題は個々人の性格や知力や意欲など諸々の掲げれた機能は、個人の幼少期では如何ともしがたいものなのではないかということである。

遺伝と環境、選べない親のDNA、選べない育てられたその幼少期の環境(幼稚園前に一度死にかけた彼らによって)。我らは、貧しい精神においても恨まず、これが私の人生だと納得して生きている。そしてそのことに対する他人には分からない個人の自己の闘い、人生を歩み生涯を終える。自分の自己認識の歪みを思い、いかんともしがたく、思いと自分自身との思考の認識のズレを生じ始めた時、そして強いてそれを打ち破ろうとしたとき、神の領域の避けた異界の領域が見え始め、彼ら(👽)の存在を感じて来たのであった。・・・