marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その13)脳科学と霊

2024-03-28 19:02:36 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 昨年2023年10月6日のブログは前置きがいつもながらに長くて、あまり読まれていなかったのですが、人という生き物の誰でもに当てはまることなのですが、自分の生い立ちの不幸を穴埋めをしよとしなければ、誰でもがそのことを考えてみようとは思わないものです。

同じことを書いているのですがね。異界を垣間見る、彼らと会話する、つまりそこはフェーズⅢなのだが・・・。

それが、脳内の神経系もビジュアルに観察して大いに医学が進展すると、海馬と線状体あたりが活性化しているときは、やる気がでているとか、脳のどこそこが活発な時なはどういう思いだなどと・・・かなりのことが分かるようになって来ている。記憶に対しての神経系の働き、どう神経網が伸びていくのか、

それで、僕らが大谷選手のようになれるのか、藤井翔太のようになれるんか、と言えば、その時点でアウトかもしれないなぁ。誰がいつそう思うのですか?思った時点でもう、重要な如何ともしがたい時期がすぎさっているのだからね。その時期に二人に先行する、啓示する彼ら(👽:宇宙人ではなく霊の使いというべきか)が見えないからである。

天性のようなものは、立花隆は、それを生まれつきの性(さが)と書いたけど、まさに『遺伝と環境』ということで、親からのDNAと10歳ころまでの脳神経系がおおよそ固まる時期に、どういう環境の基に育てられたか、ということで大いにその人の人生は決まると言っていい。(子供を育てるお母さん方は心して欲しい)。

とすると、自分ではどうしようもない、成長時期が一番、生涯の基礎ともなっていることだ。じゃじゃーん! つまり僕らが自分で誰それになれるのか、などと思った時点で少なくと自分にとっては終わっている訳だ。前に書いたけど、特にOUTへの活動をされる人はその自己を同時に今はフェーズⅠだ、Ⅱだ、などとは思ってはいないということ。

ところが、動かぬフェーズⅢは、そのことが出来るらしいのだ。自分の意欲と行動にズレが生じて、これはどうしてなんだ、いやだな自分だな、などと言う人は。いやが上にも自己のズレ、周囲との不愉快さを自己の中で是正しようと、言葉を捜すものであろうからである。今の苦しみや困難は、過去の誰かが考えて言葉を残しているのものである。

”ちょっぴり将来への意欲、喜び” は、つまりそれをある人は、自由というかもしれないけれど、脳のその部分の領域の脳の神経系が、伸びていてドーパミンが、どばっと放出するという、喜びの神経回路が出来ているのかもしれない。それが子供の脳の神経系時期にどういう環境のもとにあったか、も大いに関係しているということだ。

実は、実存主義などと言ってるけれど、ばっちりまさに内面の思いをこねくりまわすフェーズⅢなのですね。キリスト教がいうところの”罪”の問題も、誰彼ではなく自分のことであるので、ほとんどの人は自己否定などせんわなぁ。

それで、そうすると自己判断の基準となるべく自分のどこにある基軸をもとに善悪の判断をするのか・・・という、ややこしいことにぶつかる。そこが、思考のピークとなるらしいのだ。下手をするとそのまま、耐えられないと自己消滅、暗澹たる思いで自己を消滅させたいという思いが、湧いてきてどうしようもなくなる人が出てくるらしい。(自死するのはやめたまえ! 恥をかいても生き抜け。)

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しかし、それをクリアーすると、イエスと言う方が、何故死なれたのかということが、理解されてくるといことらしいのです。自己から人、神の似姿に創造された人類全般にまで、階層をあげて考えるようになるからだねぇ。しかも、空間が裂けて見え、まったくの霊の異次元が現れる体験をする人が存在する。

僕らが今生きているということは、無論、動物でもあるのだから先祖代々のDNAがその遺伝のあるものを引き継いで、僕らは気づかず、あるいは遺伝病であるならうっすら気づいても決して公にせず、僕らは堂々と自己主張したがり、しなくても生きるということは生命の維持にそのことは誰でもが当たり前のように欲しているわけなのだが、そこでは、波長があわないとか、どうもこの人は欠点があるとか・・・もろもろの他人への評価があって、無論自分も含めて生まれて生きて死んでいく。

そのポコンとこの地球上に自覚せずに誕生してしまった僕らひとりひとりが、人生100年ほどで多くの人が地上の生涯を終えていくわけで、昔も今もそうかも知れないけれど、どうしてこういう私なのだ、という疑問、さらには人は何ぞや、などという、もっと上の階層(ここでは頭脳の働きの、立花隆が言っている先のフェーズⅠ~Ⅲではなく、強いて言えフェーズⅢだろうけど、思考の階層といえばいいか、彼は実存主義の開祖キエルケゴールの『死に至る病』からこの考えを引き出して来た訳で・・・)から、地上の人類を見てみた場合、僕はせっかくなのでもっと知りたい、すくなくとも考える脳みそがあるのだから、地上の生涯があるうちに次の世界まで是非知り合いと思ってしまったわけだった。

それで、まずその基盤となる脳みその仕組みを知る、とうことは重要な一つとなったわけですが、そのまえにこれはとても大切な事なのだけれど、ここに大きな大前提がある。その前提もその自分の今の思考階層の位置を設定することによって、違った見方、方向性が新たなる前提という土台で考えるという条件を作ってしまうことになるんだねぇ。そこに、すでに自分が気づかない先に述べた幼少期の自己判断基準ができてしまっているということになる。

こんな話もまったく自分とは関係ないと思う人はいる。しかし、僕ら(複数形になっているの僕個人の意見ではないからだ)はいう、命ある人、すべてに関わる事だ。しかも、かなり階層の次元の高い話である、同時に今、あるが高すぎて人の思う次元という枠を超えている。『高い』とう思考的は上下という意味合いととれるだろうが、同時に全体がタマネギのように包まれているというイメージでもある。人の存在する三次元、時間を入れて四次元というものも更に超越している自分も含む全体をなす実態といったらいいか・・・。

説明し出すと飛躍的な表現となるからやめるが、ひとつ、俳句でも短歌でもいいけれど、あるは詩や物語文学でもいいけれど。で、亡くなった人を思いだすでもいいのだが、個人親族などの体験は当たり前だけど人類に共有化できない。それで、その歌われる俳句、短歌、詩、あるいは物語の各個人が思い描くところの次元はどこにあるのだろうか。

人が生きる時間も含めた四次元のその先に五次元の空間に僕らは思い描いているのではないだろうか? そこで五次元の世界は、確かな思い出もあろうし、あるいは俳句、短歌、文学作家への共感の何かでもあろうし、しかし、さらに求めるとその余韻は六次元までいって、もう共有化できない世界にまで行ってしまうのではないだろうか。文学などは、その次元をことさらに、共有化できうる言葉として駆使し著わすのが ”うまい表現” というらしい。

ここで異次元からの来訪者について語っている世界のベストセラーがある。それは、新約聖書のだが、これは亡くなった人、後によみがって、さらに霊としてのありようをあからさまに語った人であった訳だ。以前に『陰府(よみ)』について思えば、前に新約聖書のイエスが何を語らんとしているかが理解されていると述べた。また、違う箇所には、モーセとエリアとイエスが地上で語る『栄光』あるその次元の開示が、語られたりする。そのいずれの次元も今生のあるのだろうが普段には見えず、聞こえずの世界である。

しかし、それは実のところ、我らの次元はその彼らのいる『栄光』/『陰府』の次元との行き来があるということだ。僕らは、それに気づかず肉体に閉じ込められているということ。で、彼は行き来する世界において我らがそのままでは閉じ込められて生まれたとき授与されたものが、そのままでは肉体が劣化し消滅したときに、それに合わせ霊、僕らは肉体に一体化されたものを『魂』と呼んでいるが、同時に消滅してしまうのである。

彼らの霊は、我らに関与するものがある。よって、我らはまず、今生においては我自身の霊をかっこたるものにしないといけない。『我はある』ということ。そこに、イエスが地上に完全なるひとりの人として来られたという意味が出てくるのであると。我らは『神』というと、思考における観念的なことのみイメージするが、これを改めること。実体としてのイエス、この方との同期を願うことである。『人権』はこの辺から出てきた言葉である。

彼は世界中に共有化された亡くなった人、つまりかの次元でも世界に知られる誰でもにその次元にあって共有化された人になったし、今もそうである。彼が地上に来なければ、我らは次の世界は分からなかったということである。よって、読めば無味乾燥と思える彼の生涯を、言動を淡々と著者らは書き残すこととなったのである。そこにつなぎ言葉はあったろうが、次の世界から来るところのイエスの言葉になんとなくではあるが、2024年の今でも地上の人の考えでは不明なところがある。彼は、その空間をその言葉で異次元を求めることを願う。

「わたしはそこから来て、どこへ行くか知っている。みなはわたしの行くところには行けない。」とイエスはいう。

多くは『例え』で語り、弟子たちでもその言動を霊として感じ取ったというのが正解となるのだろう。しかも、実体として彼らは甦ったイエス個人に遭遇したのだった。死から甦った実体としてのイエスにあった。そして、さらにその言葉を聴いたのである。

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イエスが甦って弟子たちに現れたとき、トマスという弟子はいなかった。彼は、あの方(イエス)の刺された槍の穴に指を入れて見なければ決して信じないと言った。イエスはトマスの居る弟子達に再び現れ、「指を入れて見なさい。見ないで信ずる者は幸いである」とイエスはいう。

トマスは驚き、「あぁ、我が主よ! 我が神よ!」と叫ぶ。その後、トマスは奴隷に身を落としてまでインドに伝道にいった。彼が伝道した町の名前はMylapore(ミラポール)。現在のツェンナイ(Chennai)にあり使徒トマスのお墓もあると言われる。

今の我々もそうであろう。読んで理解でるのであれば、聖書は古文書で終わっているはずだが、今もそれは人々の霊に語り続けているというのだ。しかも、聖霊として。イエスが送る潔い霊として。

今日は弟子たちの足を洗った『洗足の木曜日』である。

明日、十字架に掛かり、三日目の日曜にイエスは復活した。今年2024年のイースター(復活祭)は3月31日(日)である。・・・・