大切な事を2点書き遺したいと思います。一つ目の今回は、先に述べた立花隆の『東大講義 人間の現在 脳を鍛える』に実存主義の開祖となったキィエルケゴールについて述べた箇所に、頭脳を働かせた場合、誰でもに関わっているであろう”考え方の位置”についてのことが書かれているからです。それは世界のとらえ方について述べた箇所です。先に僕らの思考も含めた次元(dimensional)について考えてみましたがフェーズ(位相:phase)という世界のとらえ方があると。面白いので述べてみたいと思う。(pーは「立花隆 東大講義 人間の現在① 脳を鍛える」(新潮社)からのページ箇所。◆とその以外は僕の見解)
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p33 三つのフェーズで考える
「さて、実存主義にの考え方には、もっと先のレベルがあります。『死に至る病』はこう続きます。・・・」
◆まさに、実存主義というもとになった、考える時の基軸をどこに置くかによって、世界のとらえ方が違ってくるだろうという考え。(実存とは自己内部においての見方)
p34「<私>の視点から外部世界を見るのではなく、自己の内部に入って<私>と<自己自身>の関係性において自己をとらえ直してみるという新しい見方です。(◆今では新しい見方では既になくなってますが実に大切な考えです。特にキリスト者は必ずこの視点を通るであろう)・・・
「そうすることによって、自分自身の内部に、もう一つの宇宙が見えてくるはずだというわけです。自己の内部世界というのは、宇宙に匹敵するくらい広くて深い。<私>というものを、<私を見る私>と<私に見られる私>に分割し、その両者の関係性において、自己をとらえてみると、そこにはあらゆる矛盾とに律背反が現れてくる。それを統合するものとしての自己があるというのです。」
「世界のとらえ方には、いつでもこの三つのフェーズ(位相)があります。
フェーズⅠでは客体それ自体を、それだけで自立している世界としてとらえる。自分はその世界の外に立って眺める立場に徹し、その中に入らない。自然科学が世界を見るときの基本的な立場はこれです。
フェーズⅡでは自己を客体世界の中に投じ、すべてを自己との関係性において見る。行動者として世界に関わって行こうとする人が見る立場である。フェーズⅠの人は世界に対して第三者の立場におり、フェーズⅡの人は世界に対してインタラクティブに関わって行こうとする人です。理系で言えば、理学部視点がⅠで工学部視点がⅡです。医学部で言えば基礎医学がⅠで、臨床医学がⅡです。文系においては、法哲学、理論経済学がⅠで法学、経済学大半が現場に身を置く実学でⅡの立場。文学では、文学研究者はⅠで、創作する側はⅡであるといっていい。
フェーズⅢとして客体世界を離れて、自己の内部世界にどこまでも入っていき、自己の深淵の中に小宇宙を見出し、外部世界は内部世界に反映する限りにおいて見ていくという立場。この立場に近いのは、哲学、文学の一部、物理学の一部、医学の中の精神医学、脳科学の一部といったところ。」
p35「人間の現在を語る」にあたっても。あらゆるものの見方には、この三つのちがう見方がある。
◆この後で、あの科学者ニュートンを書いてますが、彼は当時、キリスト教の神学論文も書いた人であり、立花隆はこう述べています。「・・・かつてニュートンは、自分の業績を偉大だと崇める人に対して、自分のやったことなど、神様の目からみれば、真理に大海を前にして、その大海の方に目もやらず、その辺に転がっている小石を一つ二つ拾って喜んでいる幼児のようなものだといったことがあります。・・・」
こういう意見からすれば、当時のニュートンが永遠の命というものをどのように受けとめていたのか分かりませんが、立花隆が、この本の冒頭、第一回で述べていた次の言葉と矛盾しませんか?
p29-30「・・・要するに、宗教とか思想というものは、ある時代の誰かが頭の中でこしらえて、頭の中からひねり出した一連の命題です。どんな大思想(といわれているもの)にも、笑ってしまう他ない珍妙な部分があります。そういう部分でちゃんと笑えることが精神的に健康であることの証なんです。しかし、若いうちから何かにのめりこんでしまうと、そういう健康さを失ってしまいます。・・・精神的健康さを養うために、若いうちは、できるだけ沢山の思想的浮気をするべきなんです。・・・」
◆つまるところ、神のことを考えるところの、異なる思考の階層(レベル)で異なる次元で神をとらえているということです。そこから神についての考えにずれが生じてますね。多くの思想的浮気をして、それらが結局、神から来ていたということに気付くには、僕ら異邦人は、放蕩息子にならなければ、いけないのかということですね。多くの思想の根源を追及すれば、天地万物創造来の神に行きつくのですがね。このような筋道で、キリストにであった人は実に多くいる。
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実存主義においての『実存』とはつまり、誰彼ではなく自分が存在することがまずあって(意識しなくとも実際誰にでもあてはまることなんだが)、思考の対象をそのまま対象としてあれこれいいくるめるのではなく、その事前の自己了解事項として対象を主体的に考える基軸としての自己についての自省が求められているということ。罪の認識が、実存主義を通らなければ理解できない、とはそのこと。しかし、誰もが○○主義などと考えないがその経路を通ってはいる。
つまり、そこには生まれたまんまの自分の勝手なあれこれを自由だ、などということ以前に、まさにこれが今も民主主義と言われる自由な国での困難な問題でもある訳なのだが、キィエルケゴールは時代のキリスト者であったから、その点の究極課題を抜きにして、つまり彼にとっては、人の『罪』について深く考えていたわけだが、キリストによって『罪解消されてお目でたいと、自己を御破算に願いましては』ということは決してありえないのだ、という当時の世論に反論した評論をしたものだった。民主主義の課題、自由の問題課題、それは今もそうだろう。
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キリストは十字架に掛かりつついつの時代も、そして今もある、と。レントはそのことを覚える時期でもある。多くの災害、戦争、飢餓、地震、彼は時の終わりに起こることを予言した。事実、そのことは起こっているではないか。21世紀になっても、多くの方があまりに理不尽な死を迎えている。悔しくはないか!本当に、本当に。
自然状態で生まれたままの自分から、自分で自分のことを考えてみるという一歩ステージアップした自省がともなう訳で、さらに突き詰めていくとそこに神に創造された人とは何か、ということが無ければ客観的に自分を考えることができない、何を判断基準とするのか、ということが無ければ、「俺が思うのだから確かだ」などと言い張れば、さらには「あんたの話など二度と聞きたくもない」とやられてしまえば、話し合いでなどということが無駄な努力となってしまう。
それは今も世界を見れば分かることだ。
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キリストが言う「すべて捨てて我に従え」というような実に彼に従うことへの理不尽な言葉が書かれている。その意味はこうでしょう。
キリスト神学では『罪とは神の摂理の的外れ』と言われる。これは多くの人は、悪いことをしないなどの道徳的な面に解釈されやすいが、そうではなく、もっと階層の高いレベルでの神の摂理の分かりやすく言えば、神のシナリオ、プログラムに沿うべき個々の人の歩みが、筋道から外れている、外れていくということを意味する言葉です。
的(まと)の中心から外れていく、そのことへのイエスの厳しい言葉、貧しいやもめの話もそうですが、その警告であるということです。マンネリ化してしまう人という生き物への警告です。ですから、その理不尽のイエスの言葉が、我らに気付かせ、霊的活性化が起きて生きてくるのではありませんか。的を外すなと。「すべて捨てました」で終わらない、それで次に伝道に励むという弟子たちの、更には死までが彼らの勝利の言葉となって残ってきたのである。
ですから我らへのその厳しい言葉は、すべてのしがらみから脱出して,的の中心、キリストの言葉を直接、聴くことを心がけて生きるべきとの警告です。それがキリスト者の生き方となるべきものでしょう。彼は今も生きているのだからと。自分の言葉でイエスと語る。最終、そこを日々めざすことです。
どのような時代に生きても我らの人生は死亡率100%です。ですから、人という生き物が逃れられない一度きりの人生と言われる。だからこそ、『死に至る病』の初めに、キリストが愛するラザロを『彼は死んだのだ』という話からキィエルケゴールは始めたのです。しかし、ラザロは墓から出て来て再び生きて生活し人生を終えて、結局肉体の死を迎えた。二度目の死を迎えてラザロは死んだのだ。そのことをキィエルケゴールは結局『ラザロは死んだ』と語るのです。
『死に至る病』とは『絶望』のことである、しかし、二度目のラザロの死は違っていた。彼は『希望』をもって天に帰ったのである、と僕はこの本をそのように解釈してきた。キリストは、信する我らが霊的に永遠に生きるという希望をもって死ぬために、すべての理不尽、すべての不条理を我らに代わり、身に負うて十字架に掛かり、昇天されたのである。彼を信ずる者の死を霊的(かの地では実態としても存在する)に迎えて、ともに永遠に生きるという希望をもって生涯を終えるのであると。
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「わたしは肉体において見えなくなるが、聖霊を送る。それが全てを教えてくれるだろう。いつも繋がっていなさい。困難はあるが決してあなたたちを孤児とはしない。」 と、彼は語る。
今年の受難週は3月最後の週で、復活祭(イースター)は、3月31日である。年度替わりの最終日。キリスト者にとって新しい年が始まる。・・・