marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その7)ボケ防止に:ハイデガー『存在と時間』を読むきっかけと核心のヒント

2024-12-17 15:17:12 | 思想・哲学

『存在と時間』を初めて目にする人は、生きていくには時間を大切に使うこと、などと教訓的にとってしまう方が多いと思う。学生時代から頓挫した本を読む為には、第一に解説書から読まないと殆ど歯がたたない。

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故、聖路加病院の日野原重明先生が、『新老人の会』で当地に来られた時に文化会館の講演で、プロジェクターの操作のお手伝いをさせていただいた事があった。その時、先生がハイデガーの『存在と時間』について語られた。その時は、やはり教訓的なことが書いてあるんだろうなと思っていたが、それが再度、挑戦してみようと思って居たわけ。その思いがずうーと続いていたのだが。

で、で、やはり再度の挑戦もさっぱりわからん。で、宗教おたくの僕としては、キリスト教神学の方がとても面白いと思ったのでそちらの方に時間を割いていた。西欧の多くの哲学者らに多大な影響を与えてきたんで何とか読みたい。日本にも多くのお金を出しても招聘したい話があったらしいが。この日本にて僅かながら理解されるのは、『存在と時間』が極めた点が仏教の教えにも近いと見なされたこともあったとか。その点だけで??

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前置きはこの辺で、ヒントとなるのは、彼は敬虔なカトリック教徒であったこと。キリスト教神学の研究から始めたということだった。

それで、このキリスト教神学から『存在と時間』の難解な言葉を読みとこうとすれば、俄然、分かり始めると思われたことだった。ハイデガーは、宗教色ぬきで(とことん考える哲学だからだろうが)キリスト教神学、人間学を言葉化しようとしたのが『存在と時間』であるというのが、僕の結論である。

考えとなる、先理解のベースであるキリスト教がすでに共通基盤としてのあったことの上に西欧の哲学は発展してきたと思われるが、ハイデガーは更に古来からの哲学の上にキリスト教神学を当てはめ、更に宗教色を抜いて、精密分解し哲学理論に展開して行こうとしたものであったと言える。

次回、ベースとなるキリスト教側の考え、それに対する『存在と時間』に出てくる特別に用いられている言葉、本来性と非本来性について。・・・つづく