突然脱線というか、本命はこれからなのだが、ハイデガーは修道士になろうとし当時のキリスト教神学や人間学を研究からスタートした人だった。
神学も常に進展している。当たり前だが、これだけという神学などというものはない。我々が生きているように、その『存在』も生きていると言われるから、十字架の神学、希望の神学、解放の神学、論理神学なんてものまである・・・。むろん、日本の神学というものもある。
西欧にはその教養基盤があるわけで、古来、ギリシャ哲学からの歴史の中で人がどこまでも精緻に言葉化しようとする哲学が行われ、その上に進展してきたわけだった。
それで、いきなり20世紀最大と言われ、実に多くの思想家、哲学者に影響を与えたハイデガー『存在と時間』について語ろうとしても日本の学者さんにとってもどのように解説したらこれはむずいと。あえて、このようにしなくても・・・。しかし、ハイデガーは、従来の考えパターン自体を変革しようとしたのでした。
それで、それなら彼の、西欧の深層にある根本の、この国でもある程度のことは知られている聖書を、すべてのこだわりを排除して(この手法がまさに彼が目指したものであったのだが)僕らも学んでみようではないか、と勝手に思ったわけなのであった。
『死への先駆』は、本当の自分になることなのだ、などという??の意味が、他にも???が盛りだくさんなのだが、理解できるように思われてくるのだった。語りが長くなるので以降、本題。
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まず、心がけて欲しいのは、神はいるとか、いないとかの考えは抜きにして、聖書を購入のこと、立派なもんでなくていい。中味は同じだから。異端と呼ばれるもろもろの聖書もあるが、それは書店ではあまり無いようだから新共同訳がいい。読みやいリビングバイブルもあるが、ストーリー理解はいいだろうけど、日本の学者さん方もいかに新約聖書ギリシャ語を訳すかに精魂こめてこられたものなのでそれがいい。
いのちのみことば社の解説つきもあるが、できればそれは初めからはやめる。まずは直接、聖書と自分の言葉で対峙することを心がける。あくまで自分の今の言葉で読むこと。結構、むずかしいと思われるが、解説書つきは二次的で。
再度、書きますが、介在物はいっさい用いないというのが、最後まで必要です。僕ら人間は思考も弱いのでどうしても解説書や他の介在物(あるとあらゆるある書物や教会や人の話)に引っ張りこまれやすい。テキストがあるということは、読まれるためにある。なんでもいいが、線を引いたりしてください。
最終、私と神(一応、『存在』されているとしておいて)との関係と考えること。『存在』しているので、彼は生き、動いている、と言われる。考えてみれば僕らの今もそうなのである。神は消滅することがないといわれる。とすれば彼と会話がつながれば、我々は死なない、消滅することはないということか!
何度でもいう。聖書と私(自分)を追求のこと。そのかかわりを持てば、旧統一教会もエホバの証人も、すぐおかしいということが分かる。ひっかった彼らは、自分の言葉で聖書を読んでいない。自分の言葉を持っていないのです。ハイデガーはこのような人を『非本来性』として『ひと』と語っている。イエスはそのような事態がおこることを予言しているが、いずれ最終あらゆる介在物を入れないことを心がけることです。・・・つづく